作者Eiichirou (水曜日的情事)
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标题[史料] 信长公记 卷十一 天正六年(1578年)
时间Mon May 19 10:41:03 2008
资料来源
http://home.att.ne.jp/sky/kakiti/shisaku.html
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信长公记
巻十一 天正六年(1578年) 播磨戦线~鉄甲船完成~荒木村重谋叛
天正六年
この年の正月朔日、安土には五畿内・若狭・越前・尾・浓・江・势州および隣国诸地の
面々が集まり、おのおの信长公のもとへ出仕して年贺の礼を行った。
1、盛运年贺 (御茶汤の事)
正月朔日、信长公はまず十二名の者达に朝の茶をふるまった。御座敷は右胜手六畳敷
の四尺縁で、席に列した者は、
中将信忠殿、武井夕庵、林秀贞、滝川一益、细川藤孝、明智光秀、荒木村重、长谷川与
次、羽柴秀吉、丹羽长秀、市桥长利、长谷川宗仁
以上であった。座敷の装饰は床の间に岸の絵を饰り、东に松岛茶壷、西に三日月茶壷、
四方盆、万歳大海、帰花水指、珠光茶碗を置き、囲炉里には姥口の茶釜を据え、くさり
で花入れ筒を钓っていた。また茶头は松井友闲がつとめた。
茶会が终わると、诸大名・诸将の出仕があった。かれらには信长公より三献の盃が下
され、矢部家定・大津伝十郎・大塚又一・青山虎が御酌に立った。
その後、信长公は出仕した面々にみずからの座所を见物させた。座所の内装は三国の
名所を写した狩野永徳笔の浓絵で饰られ、さまざまな名物が驰せ集められて并び、まこ
とに心も言叶も及ばぬ豪壮さで、计りしれぬ威光を放っていた。
信长公はこの座敷に见物の面々を上げ、全员に雑煮と唐物の菓子をふるまった。それ
はまさに生前の思い出、末代の物语で、かたじけなき事この上ない飨応であった。
さらに正月4日には、去年冬に信忠殿へ下された名物道具の披露会が万见仙千代邸で
开かれた。このとき集まったのは武井夕庵・松井友闲・林秀贞・滝川一益・长谷川与次
・市桥长利・丹羽长秀・羽柴秀吉・长谷川宗仁の九名であったが、このうち市桥长利は
信长公より芙蓉の絵を赐る栄誉にあずかった。まさに面目の至りといえた。
2、节会 (御节会の事)
この当时、宫中での节会①は长く廃れたままになっており、都の人々にも式を知る者
がおらぬありさまとなっていた。しかし信长公の时代となって内里が敬い奉られ、月卿
云客②・公卿・殿上人・役人へ知行が加えられてからは、诸卿は内里に集まって根引き
の二枝松を饰り、正月朔日辰の刻には神楽歌を謡い、さまざまな仪式を行って天下の祭
事を尽くすようになった。洛中近辺の贵賎男女はまったくめでたい时代に生まれ合わせ
たもので、絶えて久しかった祭事がこのように复活したことは、まことに有难きことで
あった。
正月10日、信长公は鹰狩で得た获物の鹤を内里へ献上した。鹤はそのまま主上のもと
へ届けられたが、これを御目にした主上は感じ入り、喜びひとしおだったということで
ある。
なお同日は近卫前久殿へも针阿弥が使者に遣わされ、同じく鹤が进ぜられていた。す
ると翌日になり、安土の信长公のもとへ近卫殿が御礼にあらわれたとの知らせがもたら
された。近卫殿が町屋に滞在していると闻いた信长公は、まず松井友闲の邸へ宿を移さ
せ、その上で対面に及んだ。対面の场へ上下服装を揃えて参上した近卫殿は、首尾よく
御礼を果たして翌日払暁に帰洛していった。
正月13日、信长公は尾张国清洲で鹰野をするため下向し、同日柏原へ出た。そして14
日に岐阜まで下り、翌日まで逗留したのち16日になって清洲へ入った。18日にはさらに
三河吉良まで狩りに出、雁や鹤を多数捕获した。そののち信长公は22日に尾张へ帰り、
23日には岐阜まで上って翌日まで滞在し、25日になって安土へ帰城したのであった。
( ①节日や祝日を祝う仪式・宴 ②大臣・大中小纳言・参议および三位以上の公家をさ
す)
3、火事出来 (回録 御弓衆御折槛の事)
正月29日、弓衆の福田与一の家から火事が起きた。妻子を安土へ越させていなかった
がための失火であり、そのことを闻いた信长公はただちに処置を下した。菅屋长頼を奉
行として台帐を作らせ、配下の衆が安土に家族を呼び寄せているかを改めさせたのであ
る。その结果、弓衆で六十名・马廻で六十名の计百二十名の者が郷里に妻子を残したま
まになっていることが判明し、信长公はかれらを一度に処罚した。
信长公は、何よりも旗下の弓衆の内から火を出したことを许しがたい过ちとした。そ
して中将信忠殿に命じて岐阜より奉行を出させ、尾张に妻子を置いている弓衆の私宅に
火を放ち、さらに植えられていた竹木をも切り倒させてしまった。このため百二十名の
者の家族は取るものもとりあえず郷里を离れ、安土へ移り住むこととなった。その後信
长公は今回の过失の代偿として彼らに城南の江の内①の新道普请を行わせ、その上で全
员に赦免を与えたのであった。
( ①安土城南侧の入江)
4、矶野逐电 (矶野丹波・矶贝新右卫门の事)
2月3日、矶野员昌が上意に背き、処罚を怖れて逐电してしまった。これを受けた信
长公は、ただちに矶野旧领の高岛一円を织田信澄へ与えた。
また2月9日には吉野山中に蛰居していた矶贝新右卫门①を土地の者が杀害し、首を
安土へ进上してきた。かれらには信长公より褒美として黄金が与えられた。このように
信长公は、ひとたび憎しみを覚えた者には必ずその报いを受けさせずにおかぬ御方であ
った。
2月23日、羽柴秀吉は播州へ攻め入った。そして加古川にある别所氏与力の糟屋内膳
の居城を借り、ここに手势を入れたのち、みずからは书写山②に要害を筑いて在阵した
。
しかし、この间に変事が起こった。别所长治が意を翻し、三木城③へ笼ってしまった
のである。
( ①もと足利义昭家臣、巻六第八段 ②现姫路市内 ③现三木市内。别所长治は当初信
长に属していたが、この年毛利氏へ通じた。)
5、四方波 (相扑の事)
2月29日、信长公は江州中の相扑取り三百名を安土へ召し寄せ、かれらの相扑を见物
した。信长公はこの中からさらに二十三名を选りすぐって技を竞わせたが、その者达に
は褒美として扇が下された。なかでも日野长光は信长公より格别に评され、御前に召し
寄せられて平骨浓涂りの扇①を与えられた。面目の至りであった。また行事は木瀬蔵春
庵・木瀬太郎太夫がつとめたが、両人には御服が下された。
なお选ばれた二十三名は以下のごとくであった。
东马二郎・たいとう・日野长光・正権・妙仁・円浄寺・地蔵坊・力円・草山・平蔵・宗
永・木村いこ助・周永・あら鹿・づこう・青地孙二郎・山田与兵卫・村田吉五・太田平
左卫门・大塚新八・麻生三五・下川弥九郎・助五郎
3月6日、信长公は鹰山狩りのため奥の岛山②へ登り、长命寺若林坊に宿泊した。そ
して3日间にわたり鹰野を行い、数多くの获物を挙げたのち8日に安土へ帰城した。そ
ののち信长公は23日に上洛し、二条御新造③へ座を移したのであった。
そして4月4日、信长公は大坂表へ军势を遣わした。军势は中将信忠殿を総大将とし
て尾・浓・势州の兵が従い、织田信雄・织田信包・织田信孝・织田信澄・滝川一益・明
智光秀・蜂屋頼隆・丹羽长秀が参阵したほか、江州・若州・五畿内からも各衆が集まっ
ていた。军势は4月5日・6日の両日にわたって大坂へ押し寄せ、付近の麦苗をことご
とく薙ぎ舍てて帰阵した。
4月7日、信长公は越中の神保长住を二条御新造へ召し寄せた。そして武井夕庵・佐
々権左卫门を通じ、神保へ近顷対面が无沙汰となっていた理由を告げさせ④、黄金百枚
としじらの织物百反を与えた。信长公は上杉谦信⑤の死亡を受けて越中への进出を考え
、神保に佐々権左卫门を添え、飞騨国司姉小路頼纲に命じてかれらを飞騨から越中へ入
国させたのであった。
4月10日、滝川・明智・丹羽の三将が丹波へ遣わされ、敌方の荒木山城守氏纲の居城
⑥を取り囲んだ。三将は城の水の手を断って攻め上げ、穷した荒木は降伏开城に追い込
まれた。そして後には明智光秀の军势が入れ置かれ、他の诸势は4月26日になって京都
へ帰阵したのであった。
( ①骨を金银で彩色した扇 ②现近江八幡市内 ③京都における织田政権の政庁兼宿舎
、前年完成 ④信长は前月末に病を患っているが、そのことを指すと思われる ⑤原文
「辉虎」。この年3月13日に死亡 ⑥园部城、现京都府园部町内)
6、播州暗云 (高仓山西国阵の事)
4月下旬、芸州より毛利・吉川・小早川・宇喜多を初めとする中国诸势が来袭したと
の急报がもたらされた。中国势は备前・播磨・美作三国の国境に位置する山中鹿之介居
城の上月城①を取り囲み、全军が大亀山に阵を构えているとのことであった。
これに対し、织田势からは羽柴秀吉・荒木村重の両人が出撃し、敌にほど近い高仓山
に上って対阵した。しかし救援すべき上月城は高山を下って谷を隔て、さらに熊见川を
越えた先であり、もはや救う手立てもなくなっていた。
その顷、信长公は4月22日に京都を出て安土へ下り、27日になって再び京へ入ってい
た。そして「5月朔日をもって播州に动座し、西国の人数と枪を合わせて讨ち破り、か
の地を一度に并呑する」と自身の出马を宣言したのだった。
しかし、これに佐久间・滝川・蜂屋・明智・丹羽の诸将が反対した。「播州の敌は険
难节所の地を押さえ、その上要害を坚固に构えて在阵しているとの由、闻き及んでござ
います。まずはわれらが出阵いたし、かの地の様子を见届けて申し上げますゆえ、しば
しの间御配虑くだされ」というのであった。
かくして4月29日、まず滝川・明智・丹羽の三将が播州へ出阵した。そして5月朔日
にはさらに中将信忠殿・织田信雄・织田信包・织田信孝・细川藤孝・佐久间信盛の诸将
が、尾张・美浓・伊势三ヶ国の兵を率いて出阵したのであった。军势はその日は郡山②
に宿阵して翌日兵库に入り、6日には播州の明石に近接する大洼③という在所に阵を构
えた。その先阵は敌城の神吉④・志方⑤・高砂⑥へ差し向かい、加古川近辺に展开した
。
( ①现兵库県上月町、既出 ②现大阪府茨木市内 ③现明石市内 ④⑤⑥それぞれ现加
古川市内・志方町・高砂市)
7、大水 (洪水の事)
信长公は5月13日に播磨へ出阵する旨を号令していた。ところが畿内では11日巳刻よ
り雨足が强まり、13日の午刻まで足挂け五夜にわたって荒々しく降り続いた。これによ
り各所でおびただしい洪水が発生し、贺茂川・白川・桂川が一面に泛滥して都の小路小
路を水没させてしまった。さらに12日・13日には三川は一つの流れとなって上京舟桥の
町々を押し流し、溺死者多数を出す损害を残したのだった。この水で村井贞胜が新たに
建造した四条大桥も流されてしまった。
このような大洪水ではあったが、ひとたび信长公御出阵と决まればその日程は何があ
ろうと决して変更されなかったのがこれまでの例であり、今回も信长公は船に乗ってで
も出阵を决行するに违いなしと思われた。このため淀・鸟羽・槙岛の各衆はこぞって数
百艘の舟を用意し、三条油小路①まで橹櫂を漕いで迎えに立ったのであった。この働き
を闻いた信长公は、すこぶる机嫌を良くした②。
5月24日、竹中半兵卫が中国路の戦况报告にやってきた。その内容は备前国八幡山の
城主が味方に立ったというもので、これに満足した信长公は羽柴秀吉へ黄金百枚・竹中
半兵卫へ银子百両を与えた。半兵卫はかたじけない幸福にあずかりつつ戻っていった。
5月27日、信长公は安土の大水の状况を検分するため京を下った。松本③から矢桥④
まで乗船した信长公は、このとき御小姓衆のみを引き连れて湖水を渡ったのだった。そ
の後信长公は6月10日になって上洛の途につき、ふたたび矢桥・松本间を乗船して京へ
入った。
6月14日は只园会の祭日であった。信长公も见物に立ったが、付き従う马廻・御小姓
衆には弓・枪・长刀・持道具类の携行无用の沙汰が申し渡されており、いずれも軽装で
従っていた。祭の见物が终わると、信长公はさらに御供衆をも帰らせ、御小姓衆十人ば
かりのみを连れて鹰野へ出かけたのだった。
この日は小雨であった。なお同日信长公は近卫殿へ山城の内普贤寺に千五百石の知行
を宛行った。
6月16日、播磨から羽柴秀吉が上京し、播州阵について信长公の指図を仰いだ。これ
に対し、信长公は「谋略武略もなしに长阵していても诠はなし。まずは阵を払い、军势
を神吉・志方へ寄せて攻め破り、その上で别所が笼る三木の城を囲むべし」と指示した
。この指示により神吉攻めが开始されることとなり、検使に大津伝十郎が任じられたほ
か、水野九蔵・大塚又一郎・长谷川竹秀一・矢部家定・菅屋长頼・万见仙千代・祝弥三
郎が番替で検分に当たるよう命じられた。そして信长公自身は6月21日に京を出て安土
へ下ったのであった。
( ①原文は「五条」だが、油小路は三条 ②结局出阵は延期された。 ③现滋贺県大津
市内 ④现草津市内)
8、戦尘 (播磨神吉城攻めの事)
6月26日、播州に展开する织田势のうち、滝川・明智・丹羽の各势は敌方への备えと
して三日月山①へ上り、同时に羽柴秀吉・荒木村重は高仓山の手势を払って书写山まで
引き扬げた②。そして翌27日には中将信忠殿の军势が神吉城を取り囲み、城北から城东
の山へかけて信忠殿・织田信孝・林秀贞・细川藤孝・佐久间信盛らが前後左右に段を连
ねて布阵したのであった。
また志方城に対しては织田信雄が攻囲の阵を据え、同时に丹羽长秀・若狭衆が城西の
山に阵を布いて敌に备えた。そしてこれらの备え手を除く滝川・稲叶・蜂屋・筒井・武
藤・明智・安藤・氏家・荒木の诸势は、神吉城めがけ怒涛のごとく押し寄せた。寄せ手
はまたたく间に外构えを攻め破って城を裸城にし、そのまま本城の堀を越えて城壁を突
き崩し、数刻にわたって猛攻を加えた。このとき织田信孝は足軽と先を争って奋闘した
。
戦は激戦となり、手负い・戦死者あまたを出した。织田势は一気に城を抜くことは难
しいと考え、その日は一旦攻撃の手を缓めた。そして翌日になって竹束をつらねて本城
塀际まで诘め寄り、堀を草で埋め、筑山を盛って城攻めを続けたのだった。
このように播磨で戦闘が続く中、羽柴秀吉は但马国へ出兵していた。そして以前のご
とくに国衆を服属させ、竹田城に羽柴秀长を入れ置いたのち、自身は书写山へ军势を返
した。
その後神吉では戦局が动き、まず手薄となっていた南の攻め口に织田信包が阵を移し
て攻撃を开始した。また敌方に増援の动きが见られないため备えの人数も不要となり、
丹羽长秀と若狭衆が阵を解いて攻囲に加わった。丹羽势は城东の攻撃を请け负い、井楼
を二つ高々と组み上げて城内へ大鉄炮を打ち込み、堀を埋め筑山を筑いて攻めたてた。
さらに滝川一益は南から东の攻め口を担当し、金堀衆を入れ、井楼を组み、大鉄炮で塀
・橹を打ち崩し、橹へ火を放って焼き落とす成果を上げた。
その他の诸势もそれぞれに井楼・筑山を筑いて日夜攻撃を続けた。このため城方はさ
まざまに诧言をして降伏を申し入れるようになったが、信长公は検使を遣わして寄せ手
を固く统制し、降伏をすべてはねつけさせた。
6月29日、兵库・明石间および明石・高砂间は距离が远く、海手の水军への警固が必
要であると考えた信长公は、织田信澄に山城衆を加えた人数を现地へ派遣し、あわせて
万见仙千代も遣わした。信长公はしかるべき场所を见计って军势を置くよう指示してお
り、これを受けた信澄と仙千代は现地で适良な山を见つけ、それを足がかりに城砦を筑
いて军势を入れ置いた。命を果たした仙千代は信长公のもとへとって返し、その様子を
复命した。このほか行路には信忠殿の指令のもと、林秀贞・市桥长利・浅井新八・和田
八郎・中岛胜太・塚本小大膳・簗田広正が交替で警固に当たっていた。
そして7月となった。このころ洛中では7月8日巳刻に四条道场③の寮社から出火す
るなど、火事の频発する时节となっていた。
7月15日、滝川一益・丹羽长秀の両势は夜に入って神吉城东の丸への突入に成功し、
16日には中の丸まで攻め込んで城主神吉民部少辅を讨ち取った。天守には火が放たれ、
その下で両军が混乱するうちに火は広がり、やがて天守は焼け落ちて城兵の过半が焼死
してしまった。
また西の丸は荒木村重の攻め口であった。城方では神吉藤大夫が守っていたが、これ
に対しては佐久间信盛・荒木村重の両人が降伏を取り持った。藤大夫は赦免され、志方
城へ退去していった。
かくして神吉は落ち、落去した城は羽柴秀吉の手に委ねられた。攻め手はそのまま近
接する志方城の攻略に向かったが、志方では城兵が防戦かなわじと见て降伏し、人质と
ともに城を明け渡した。この城も神吉とともに羽柴秀吉に委ねられるところとなった。
その後军势はさらに别所长治の笼る三木城へも攻め寄せ、周囲に近々と付城を筑いて在
阵したのであった。
( ①现兵库県三日月町内 ②この戦线缩小により尼子氏と山中鹿之介の笼る上月城は织
田势から见舍てられ、落城することとなる。 ③时宗金莲寺)
9、鉄甲船 (九鬼大船の事)
信长公は九鬼嘉隆に命じ、鉄装の大船六艘を建造させていた。またそれとは别に滝川
一益にも大船を作らせており、こちらは白舟に仕立てさせていた。
そして6月26日、これら七只を中心とした船団は顺风を见计って熊野浦へと押し出し
た。目指す先は大坂冲であった。
するとこれを淡轮①海上で迎え撃つべく、雑贺・淡轮の浦々から大坂方の小船が数を
も知れず出航してきた。敌船は大船へ次々に矢を射挂け、鉄炮を発射して四方から攻め
立ててきた。これに対し、九鬼嘉隆は山のごとくに重装を施した七只の大船と小船から
なる船団を率い、敌船を间近に引き寄せてはあしらうように応戦した。そして机を见て
大炮を撃ちかけ、敌船数多を撃沈させた。
海戦は、鉄船の胜利に终わった。この海戦ののち敌方は鉄船へ寄りつくこともためら
う有様となり、船団は7月17日に难なく堺へ着岸した。岸には见物人が集まり、その耳
目を惊かせた。そして翌日、船団は大坂表へ乗り出して要所々々に船を配置し、海上の
通行を封锁して攻囲を固めたのであった。
ところで、このころ中将信忠殿は岐阜で庭饲いの鹰四匹を育てていた。いずれも近来
まれにみる羽根振りで、ここまで育て上げた鹰匠の名誉はこれに过ぎたものはなかった
。
このため7月23日、信忠殿は鹰匠の山田・広叶の両人を安土へ遣わし、鹰を信长公の
もとへ持参させた。すると信长公はそのうちの一匹を手元に召し置き、残りを信忠殿に
返し、鹰匠には辛労への报酬として银子五枚と御服をそれぞれに与えた。両名は様々に
报奨を受けたのち、岐阜へと帰っていった。
また8月5日には奥州津軽の南部氏より南部宫内少辅が鹰五匹を进上してきた。これ
に対し、信长公は8月10日南部の使者を万见仙千代邸に迎え、かれらを飨応して返礼を
おこなった。
( ①现大阪府岬町淡轮)
10、安土相扑 (小相扑の事)
8月15日、信长公は近州・京都の相扑取りら千五百人余を安土へ召し寄せ、かれらに
相扑を取らせて観覧した。安土山で辰の刻から始まった取组は酉の刻まで行われ、诸将
たちもそれぞれ家中から腕自慢を引き连れて参列していた。なお当日奉行の任に当たっ
たのは织田信澄・堀秀政・万见仙千代・村井作右卫门・木村源五・青地与右卫门・後藤
喜三郎・布施藤九郎・蒲生氏郷・永田刑部少辅・阿闭孙五郎贞大で、行事は木瀬蔵春庵
と木瀬太郎大夫の両人が务めた。
また参加した力士は、
小相扑五番打
京极家中 江南源五 木村源五家中 深尾久兵卫
布施藤九郎小者 勘八 堀秀政家中 地蔵坊
後藤家中 麻生三五 蒲生中间 薮下
大相扑三番打
木村源五家中 木村伊小介 瓦园家中 绫井二兵卫尉
布施藤九郎家中 山田与兵卫 後藤家中 麻生三五
长光 青地孙次
づかう 东马二郎
たいとう 円浄寺源七
大塚新八 ひしや
以上であった。
取组がおおかた终了したとき、辺りはすでに薄暮となっていた。ここで信长公はかね
てより强力の评判を耳にしていた永田刑部少辅と阿闭贞大の働きを见たく思い、相扑を
差配していた奉行衆へ取组を所望した。奉行衆はこれに従い、まず堀秀政・蒲生氏郷・
万见仙千代・布施藤九郎・後藤喜三郎が、次いで永田・阿闭の両名がしばらくの间适当
に组み合わせを作って取组を行った。なかでも阿闭は特に秀でて器量骨柄すぐれ、力の
强さは隠れなきものであったが、运か実力か胜利を得たのは永田刑部少辅のほうであっ
た。
この日信长公は取组の赏品に珍物の数々を取りそろえ、终日の间かわるがわる力士达
へ与え続けた。また数度にわたって良い相扑をした者达は信长公に召し出されることと
なり、
东马二郎・たいとう・づかう・妙仁・ひしや・助五郎・水原孙太郎・大塚新八・あら鹿
・山田与兵卫・円浄寺源七・村田吉五・麻生三五・青地孙次
以上十四名の相扑取りが取り立てられ、のし付きの太刀・脇差・御服上下をたまわっ
た上に所领百石と私宅まで与えられたのだった。まことに面目の至りといえた。
また8月17日には播磨より中将信忠殿が帰阵した。これを受けた信长公は9月9日ふ
たたび安土で相扑を催し、信忠殿と织田信雄殿に见物させた。
9月15日、信长公は大坂表の城砦群に入る番衆たちの目付として小姓衆・马廻・弓衆
を派遣することを决め、かれらを二十日勤番で各砦に遣わしはじめた。また信长公自身
は22日に上洛の途につき、その日は瀬田の山冈景隆居城に宿泊した。そして翌日になっ
て二条御新造へ入ったのだった。
なおこれに先立つ9月14日には、越中で斎藤新五が行动を开始していた。越中では太
田保①の津毛城②に敌方上杉势の椎名小四郎と河田豊前守长亲が军势を入れていたが、
尾张・美浓势近付くの报を耳にしてたちどころに退散してしまった。労せず津毛を手に
した斎藤新五は神保长住势を城に入れ置き、みずからは三里ほど进んだ场所に阵を构え
て各所へ出阵を缲り返していった。
( ①现富山県富山市~大山町の诸地域 ②现富山県大山町内)
11、観舰 (大船堺津にて御见物の事)
9月27日、信长公は九鬼嘉隆の鉄船を観覧するため京を出て八幡まで下り、翌28日は
若江に宿泊した。そして29日には早朝より天王寺を访れて佐久间信盛の阵所でしばし休
息し、そののち住吉大社の社家に座を移した。なお、この天王寺から住吉までの道中、
信长公は道々で鹰狩を行いつつ歩を进めていた。
そして30日晦日、信长公は払暁より堺凑へ入った。このとき信长公には近卫前久殿・
细川昭元殿・一色満信殿らが大船见物のため同行していた。
やがて、その一行の前へ九鬼の大船が现れた。大船はさまざまに饰り立てられて帜・
指物・幔幕を船上に林立させ、浦々の武者舟もそれぞれに兵具で装饰して周囲を漕ぎま
わしていた。また堺は南庄・北庄①一つとなって御座船を仕立て、おびただしい唐物で
船を饰り立てた上に进物の数々をわれ劣らじと信长公へ献じてきたのであった。
このとき堺の僧俗男女は信长公を拝み奉るべく盛装し、芳香・焼香の香りを四方に薫
じさせて陆に群れ集まっていた。信长公はその中をただ一人九鬼の大船に乗り移り、船
内を见物してまわった。
そののち信长公は今井宗久のもとへ足を运んだ。过分な名誉であり、宗久にとっては
まことに後代の面目といえた。信长公は宗久宅で茶の汤を行ったのち帰りの途につき、
道中で红屋宗阳・津田宗及・道巴宅に立ち寄りつつ住吉の社家に戻った。
住吉に着いた信长公は九鬼嘉隆を召し寄せ、黄金二十枚と御服十着・菱喰の折箱二行
を下赐した。そしてその上に九鬼と滝川一益へそれぞれ千人扶持を与え、さらに滝川の
白船に乗船していた犬饲助三・渡辺佐内・伊藤孙大夫の三名にも黄金六枚に御服を添え
て与えたのであった。いずれの者もこの褒赏をありがたく顶戴し、その恩恵に浴した。
そして10月1日、信长公は住吉を出て帰洛の途につき、途中安见新七郎の居城で休息
したのち无事二条御新造へと帰り着いた。
ところがその翌日、信长公は留守をおろそかにしていた住阿弥という者を成败してし
まった。さらには长らく召し使っていた、さいという女をも同罪に処したのであった。
( ①堺は南庄と北庄に分かれていた。 )
12、越中阵 (越中御阵の事)
10月4日、斎藤新五は越中国太田保の本郷①に阵を构え、ここから河田长亲・椎名小
四郎の笼る今和泉②の城下まで押し寄せて放火を働いた。そして未明に军势を返そうと
したところ、敌方が兵を出して追尾してきた。
この动きを见た斎藤新五は节所を选んで军势を退かせてゆき、月冈野③という地に至
ったところで军势を立て备えて一戦に及んだ。そして见事敌势を追い崩し、首数百六十
を讨ち取る胜利を挙げたのであった。
胜ちに乗じた斎藤势はそののちも势いを休めず駆けまわり、各所の土豪たちから人质
を取り固めていった。そして人质を神保长住に引き渡したのち帰阵の途についたのであ
った。
10月5日、信长公は五畿内・江州の相扑取りを集めて二条御新造坪の内④で相扑を取
らせ、摂家・清华家の面々に见物させた。そして翌6日になって坂本から乗船して安土
へ下り、14日には长光寺山で鹰狩を行った。この狩では岐阜で育てられた庭子の鹰が见
事获物を仕留めたため、信长公はひどく上机嫌であった。
( ①②③现富山県富山市内 ④殿舎と殿舎の间の区画、中庭)
13、村重谋叛 (荒木摂津守逆心を企て并に伴天连の事)
10月21日、信长公のもとへ荒木村重が逆心を企てているとの报が各所よりもたらされ
た。しかし信长公はこの报を疑い、村重方へ松井友闲・明智光秀・万见仙千代を遣わし
て「いずれの不足ありや。存分を申せば、望みを与えよう」と问わせしめた。すると村
重は「野心など、少したりともありませぬ」と答えてきた。信长公はこの返答に安堵し
、人质として御生母を差し出すことを约束した上で、「别仪なくば出仕すべし」と命じ
た。
しかし村重は来なかった。彼はすでに谋叛を决していたのであった。そもそも荒木村
重は一仆の身にすぎぬ者であったが、先年公方様が信长公へ敌対したみぎりにまっさき
に信长公へ忠节を誓い、その功により摂津国の一职支配を任されるまでに出头したもの
であった。しかしそのような身にもかかわらず村重は身のほどを知らず厚遇を夸り、つ
いに别心を抱くまでに至ったのである。
もはや村重の叛意は明らかであった。信长公は「この上は是非に及ばす」といって安
土に织田信孝・稲叶一鉄・不破光治・丸毛长照を残し、11月3日みずから出马して二条
御新造へと着阵した。信长公はここでも明智光秀・羽柴秀吉・松井友闲らに再三説得を
试みさせたが、村重が応じることはなかった。
このとき大坂表の各所に筑かれた织田方の付城には、信长公のもとより目付として小
姓衆・马廻の歴々が派遣されていた。このため村重は大坂への土産として、これら侧近
衆を杀しにかかるに违いなしとの风闻が流れた。この噂は信长公の耳にも届き、信长公
は彼らを思って不悯に感じたが、もはや手の打ちようがなかった。
しかしいかにして察したものか、侧近衆はいずれも付城の番将たちによって无事保护
され、信长公のもとへ送り届けられてきた。信长公はこれに喜び、彼らを召し出して「
雑説の数々に怖じぬこと见事であった。まことに家の面目、その身の神妙である」と感
じ入って各々に御服を与えた。かたじけなき次第であった。
そのような中の11月6日、西国毛利の兵船六百余艘が木津川口に乗り出してきた。こ
れに対し织田势からは九鬼嘉隆の船団が立ち向かったが、西国势は逆に九鬼水军を包囲
して攻撃をしかけてきた。ここに6日辰刻から午刻までの长きにわたる船戦が木津川口
南方の海上で缲り広げられたのだった。
はじめ、九鬼水军が敌势を支えることは到底不可能に思われた。しかし九鬼の船団に
は六艘の鉄船と数多の大鉄炮が备わっていた。九鬼势は敌船を间近まで引き寄せ、その
中から大将船とおぼしき船を见つけて大鉄炮をもって打ち崩した。すると敌船団は一様
にひるみ、その後は近付くこともできなくなったのであった。
かくして九鬼水军は敌船数百艘を木津冲へ追い返すことに成功した。陆でこの様子を
见物していた者で、九鬼の手柄に感じ入らぬものはなかった。
11月9日、信长公は摂津表へ出马して山崎に阵を取った。そして翌日になって滝川一
益・明智光秀・丹羽长秀・蜂屋頼隆・氏家直通・安藤守就・稲叶一鉄を芥川①・糠塚②
・大田村③・猟师川④沿いに着阵させて敌城の茨木城へ差し向かわせ、大田郷北方の山
に付城を普请するよう命じた。
また中将信忠殿・织田信雄・织田信包・织田信孝、越前衆の不破直光・前田利家・佐
々成政・原长頼・金森长近、日根野备中・日根野弥次右卫门も到着し、摂津国天神の马
场に阵を张った。信长公はかれらを高槻へ差し向かわせ、天神山砦を普请して固めるよ
う指示した。そして信长公自身は安満⑤という地に入り、山手の四方を见下ろせる丘陵
上に阵を构え、麓につなぎの砦を设けて在阵したのであった。
ところで高槻城主の高山右近はキリシタン门徒であり、それに目をつけた信长公は一
案を廻らした。阵中へバテレンの宣教师を召し寄せ、「右近に忠节を働きかけよ。さす
れば何処にキリシタン寺を建设しようとも许可する。しかしもし请けぬというなら、そ
の时は宗门を断絶する」と申し渡したのである。宣教师としては请けざるを得なかった
。
かくして宣教师は佐久间信盛・羽柴秀吉・松井友闲・大津伝十郎に同道されて高槻に
入り、理をわけて右近を説得した。このとき右近は当然ながら荒木方へ人质を差し出し
ていたのだが、右近はこのさい小鸟を杀して大鸟を助けることがキリシタンの繁栄につ
ながると考えた。そうして伴天连の説得に応じ、高槻城を开城することを承诺したので
あった。信长公は大いに喜んだ。
そのような中、茨木への付城として普请を进めさせていた大田郷の砦が完成した。信
长公はここに越前衆の不破・前田・佐々・原・金森势および日根野势を入れ置いた。
そして11月14日になり、この大田砦の普请衆であった滝川・明智・丹羽・蜂屋・武藤
・氏家・安藤・稲叶・羽柴・细川は先阵を切って伊丹へ攻め寄せ、足軽を出して攻撃を
加えた。また武藤舜秀の手の者も出撃して敌中へ駆け入り、马上で组み讨ちして敌首四
つを挙げる功をたてた。武藤は首を安満の信长公のもとへ送ったのち近辺に放火して伊
丹を押さえ、敌城ほど近くの刀根山⑥に阵を取って対阵したのであった。
またほかにも摂津の地には织田势によって各所に砦が筑かれており、见野⑦の郷には
道から南に入った山手に砦が筑かれ、蜂屋・丹羽・蒲生および若狭衆が在阵していた。
さらに小野原⑧にも中将信忠殿・织田信雄・织田信孝が阵を构えていた。
11月15日、信长公は安満から郡山⑨へ阵を移した。すると翌11月16日になって郡山へ
高山右近が伺候し、信长公へ帰服の御礼を言上してきた。信长公はこれを喜び、着てい
た小袖を脱いで右近に与えたほか、埴原新右卫门献上の秘蔵の名马もあわせて下赐した
。かたじけなき次第であった。信长公はさらに帰服の褒美として右近に摂津国芥川郡を
与えた上で、「いよいよ忠节を励むがよし」と御使衆を介して申し谕したのであった。
11月18日になって信长公は惣持寺⑩に出、ここから织田信澄势に命じて茨木城の小口
を押さえさせた。そして寺内の要害构筑を越前衆の不破光治・前田利家・佐々成政・金
森长近・日根野备中・日根野弥次右卫门・原长頼らに命じ、同时に大田郷の砦を引き払
わせて攻囲の轮を缩めたのであった。
その後信长公は23日にふたたび惣持寺を访れたのち、翌24日には年寄衆のみを引き连
れて刀根山の砦を閲兵に访れた。
この日24日は亥刻に雪が降り出し、夜通し时雨が吹き荒れた。时雨の向こうに浮かぶ
茨木の敌城には、石田伊予・渡辺勘大夫・中川瀬兵卫清秀の三名が立てこもっていた。
ところが、この日24日の夜半顷になって茨木城は织田势を城内へ引き入れ、石田・渡
辺勘大夫両人に加势する者を城中から追いやって开城してしまった。これは中川清秀の
内通によるもので、调略に当たった古田佐介・福富秀胜・下石彦右卫门・野々村三十郎
四名の知略の成果であった。
かくして茨木城も开城し、调略に功あった四名はそのまま茨木城の警固役として入れ
置かれることとなった。これにより信长公は摂津の过半を制したことになり、人々はそ
の戦果に上下を问わず安堵の息をついたものであった。
11月26日、信长公は中川清秀に黄金三十枚を与え、さらに使いに立った中川家中の者
三人にも黄金六枚に御服を添えて下赐した。また高山右近に対しても金子三十枚が下さ
れたほか、家老二人にも金子四枚と御服が与えられた。
11月27日になり、信长公は郡山から古池田⑪に阵を移した。この日は朝から风が吹い
てひとかたならぬ寒気であったが、その中を晩になって中川清秀が古池田本阵へ伺候し
てきた。清秀は大いに歓待され、
信长公から太刀拵の腰の物と皆具揃えの马
中将信忠殿から长光の腰の物と马
织田信雄から秘蔵の名马
织田信孝から马
织田信澄から腰の物
以上の品を拝领し、かたじけない思いにあずかりつつ帰っていった。
11月28日、信长公は敌地にほど近い小屋野⑫まで阵を寄せ、四方より攻囲の轮を缩め
させて要所々々に阵を筑かせた。
なおこのとき近在の百姓たちはことごとく甲山⑬に登り、山上に小屋を构えて退避し
ていた。しかし信长公はこの百姓たちが何も断りを入れなかったのを曲事と感じたのか
、堀秀政・万见仙千代に诸手の狼藉人を付けて山々を探索させ、かれらを切り舍てては
兵粮その他を际限なく夺い取って来させた。
信长公は滝川一益・丹羽长秀を兵库方面へ遣わし、西宫・茨住吉・芦屋の里・雀が松
原・三阴の宿・滝山・生田の森⑭に阵を取らせた。両名の军势は荒木志摩守の笼る花隈
⑮に押さえの人数を置き、その上で山手を通って兵库へ入り、僧俗・男女の别なく抚で
切りに斩杀してまわった。そして堂塔・伽蓝・仏像・経巻その他を一字も残すことなく
灰烬に帰させた上で、须磨・一の谷⑯まで进出して近辺を放火してまわったのであった
。
また大和田⑰といって、尼崎に隣接する地があった。大坂からは尼崎へも伊丹へも抜
けられる交通の要冲であり、安部二右卫门という者が城主をつとめていたのだが、この
安部も芝山源内と相语らって信长公へ忠节を申し出てきた。
( ①现大阪府高槻市内 ②③现茨木市内 ④茨木川の别称 ⑤现高槻市内 ⑥现豊中市
内 ⑦现川西市内 ⑧现箕面市内 ⑨现茨木市内 ⑩现茨木市内 ⑪现池田市内
⑫现兵库県伊丹市内 ⑬现西宫市内 ⑭それぞれ现西宫市・现神戸市东滩区・现芦屋
市・现神戸市东滩区・现神戸市东滩区・现川西市・现神戸市中央区 ⑮现神戸市中央
区 ⑯现神戸市须磨区 ⑰现大阪市西淀川町))
14、攻囲 (安部二右卫门御忠节の事)
蜂须贺彦右卫门正胜の仲介によって信长公へ通じた安部・芝山の両人は、12月1日夜
に小屋野の信长公阵営を帰服の御礼に访れた。信长公はこれに満足して黄金二百枚を与
え、両人はかたじけない思いにあずかりつつ退出していった。
ところが、帰服は简単にはいかなかった。知らせを闻いた安部の亲と伯父が「大坂门
迹と荒木に対し不义はならず。われらは断じて同心しかねる」として承知せず、大和田
城天守に笼ってしまったのである。
安部はこのままでは帰服は不可能と察し、亲と伯父の申し分を闻き入れてなだめた。
そして忠节なくして信长公からの黄金を手にしたと言われる前に金子を返上し、その上
で改めて敌対の色を立てることを表明したのであった。かくして安部は芝山源内を使者
として小屋野へ送り、与えられた金子を信长公へ返上した。これを受けた信长公は、「
是非に及ばす」と口にした。
安部はさらに蜂屋・阿闭両人の阵へ足軽を出势させ、鉄炮で攻撃をさせるという织田
方への敌対作戦も立てた。安部の亲と伯父は、事态がこのように进んだことに満足しき
っていた。
ところが、これらはすべて安部の谋りごとであった。安部はこのようにして亲と伯父
を存分に欺いた上で、まず伯父を尼崎の荒木新五郎と大坂への使者に立てて今後も変节
なく味方する旨を伝えさせた。そして亲がこのことに喜んで天守から降りてきたところ
を捕らえて刀を夺い、そのまま人质として京へ护送してしまったのである。
安部はその上で12月3日の夜に再び小屋野の阵へ伺候し、帰服への辛苦の数々をつぶ
さに言上した。これを闻いた信长公は最初の忠节を上回る安部の神妙な働きぶりに感じ
入り、かたじけなくも腰に差していた左文字の脇差を与え、また皆具の马も下されたの
であった。
信长公はさらに太刀代として安部へ黄金二百枚を赠り、あわせて摂津川辺郡の一职进
退を任せた。また芝山源内にも马が与えられた。
12月4日、滝川一益・丹羽长秀は兵库一の谷を焼き払った军势を返し、伊丹を押さえ
て塚口の郷①に在阵した。
そして12月8日申刻より织田方诸势は伊丹へ诘め寄せ、有冈の攻城戦を开始した。そ
の中で信长公は堀秀政・万见仙千代・菅屋长頼の三名を奉行として鉄炮衆を率いさせ、
町口へ押し寄せて鉄炮で攻撃を行わせた。またそれに続いて弓衆の平井久右卫门・中野
又兵卫・芝山次大夫にも、三手に分かれて火矢を射入れ町を放火するよう命令を下した
。
织田势は酉の刻から亥刻まで城へ近々と押し寄せて攻撃を続け、城方は塀际でこれを
支え続けた。そしてこの中で万见仙千代が讨死を遂げたのであった。
12月11日、信长公は诸所に付城の构筑を命じ、みずからは古池田に阵を移した。この
とき付城への在番を命じられたのは、以下の诸将であった。
一、塚口郷 丹羽长秀・蜂屋頼隆・蒲生氏郷・高山右近・织田信孝
一、毛马村② 织田信包・滝川一益・织田信雄卿・武藤舜秀
一、仓桥郷③ 池田恒兴・池田胜九郎元助・池田幸亲辉政
一、原田郷④ 中川清秀・古田佐介
一、刀根山 稲叶一鉄・氏家直通・伊贺平左卫门・芥川氏
一、郡山 织田信澄
一、古池田 塩川伯耆守
一、贺茂⑤ 中将信忠殿
一、高槻城番手衆 大津伝十郎・牧村长兵卫・生驹市左卫门・生驹三吉・汤浅甚介・猪
子次左卫门・村井作右卫门・武田左吉
一、茨木城番手衆 福富秀胜・下石彦右卫门・野々村三十郎
一、中嶋⑥ 中川清秀
一、ひとつ屋 高山右近
一、大和田 安部二右卫门
このように番手を命じた上で、信长公はさらに羽柴秀吉の助势として佐久间信盛・明
智光秀・筒井顺庆を加えた军势を播磨へ派遣した。そして有马郡三田⑦の敌城に対して
道场河原⑧・三本松の二ヶ所に砦を筑かせ、そこに羽柴秀吉の人数を入れ置かせた。军
势はそののち播磨へ入り、别所长治の笼る三木城へ差し向かう付城群に兵粮・鉄炮・弾
薬の补给や普请等を行ったのち帰阵したのであった。
( ①②现尼崎市内 ③④现豊中市内 ⑤现川西市内 ⑥现大阪市东淀川区内 ⑦现兵库
県三田市内 ⑧现神戸市内)
15、丹波入り (丹波国波多野馆取巻きの事)
播磨から戻った明智光秀はそのまま丹波へ攻め入り、波多野秀治の馆を取り巻いた。
光秀は馆の周囲三里四方を自身一手の军势でもって囲み、堀を作り、塀・栅を几重にも
设け、さらに堀际には隙间なく诸卒の阵屋を连ねさせ、町屋のごとくに仕立て上げた。
光秀はその上に廻番を设けて警固を厳重に行わせ、まさに獣の这い出る隙间もないほど
に包囲をかためて在阵したのであった。
一方信长公は、12月21日に小雪のちらつく中を古池田から京都へ马を纳めていた。そ
して12月25日になって安土へ帰城した。
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