作者Eiichirou (水曜日的情事)
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标题[史料] 信长公记 卷九 天正四年(1576年)
时间Wed Mar 26 20:33:20 2008
资料来源
http://home.att.ne.jp/sky/kakiti/shisaku.html
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信长公记
巻九 天正四年(1576年) 安土筑城始め~木津川口海戦~三河吉良放鹰
天正四年
1、安土筑城 (安土御普请の事)
この年の正月中旬、信长公は丹羽长秀に命じ、江州安土山の筑城を开始させた。そし
て2月23日には信长公自身が安土に座を移した。普请の进行ぶりを実検した信长公はひ
とまず満足し、褒美として丹羽长秀に名物珠光茶碗を与えた。まことにかたじけなき次
第であった。またこのとき马廻の衆は信长公より山下に屋敷地を与えられ、それぞれ自
邸の普请を开始することを命じられた。
4月1日からは大石をもって山内の塁壁地に石垣が筑かれはじめた。また「城内に天主
を筑くべし」①との信长公の命に従い、安土には尾・浓・势・三・越五州に若州・畿内
の诸侍、および京都・奈良・堺の大工诸职人が参集し、おのおの技巧のかぎりを尽くし
た。瓦焼には唐人の一観が加えられ、唐様に仕上げるよう申し付けられた。
近接する観音寺山・长命寺山・长光寺山・伊场山②からは大石が数多く引き出され、
千・二千・三千とまとめられて安土山へ上げられていった。引き上げられた石は石奉行
の西尾小左卫门・小沢六郎三郎・吉田平内・大西某によって吟味され、小石は退けられ
て大石のみ选りすぐられていった。
これらの石の中で、津田坊が运んできた蛇石と呼ばれる石はまた格别のものであった
。すぐれた名石であったが、并はずれた大石でもあり、山麓までは运べたものの山上に
は一切上げられずにいたのである。结局この蛇石は羽柴秀吉・滝川一益・丹羽长秀の助
势一万人の手によって昼夜三日がかりで引き上げられることとなったが、このとき信长
公は巧妙な手で③人足たちを囃し立て、いとも简単に天主台へ引き上げさせることに成
功したのであった。このように普请は昼夜の别を问わず、山も谷も动かんばかりの势い
で进められた。
安土の普请が进む中、信长公はまた京都にも座所を造ろうと考えた。そして安土の监
督は御息信忠殿に任せ、みずからは4月晦日に京都に入って二条妙覚寺に宿泊した。
( ①安土城の场合、天守には「天主」の字を当てていたことが知られている ②いずれ
も安土周辺(现近江八幡市~能登川町あたり)の山 ③原文「御巧を以って」。足利义昭
邸建造(巻二第二段)のときのように石を饰り立てて笛や太鼓で囃したものか)
2、都屋敷 (二条殿御构御普请の事)
京都では幸いにも二条晴良殿の屋敷地が空地になっていた。信长公はここの泉水・大
庭の眺望に兴を覚え、この地に普请することを决めて村井贞胜に普请の细目を申し闻か
せた。
3、本愿寺咆哮 (原田备中、御津寺へ取出し讨死の事)
4月14日、信长公は荒木村重・细川藤孝・明智光秀・原田直政の四名に上方の人数を
加え、大坂の石山本愿寺へ攻め寄せさせた①。四将のうち荒木村重は尼崎から海上へ攻
め寄せ、大坂の北野田②の地に三ヶ所の砦を筑いて川手の通路を封锁した。また明智光
秀と细川藤孝は大坂东南の森口③・森河内④に砦を构えた。そして原田直政は天王寺⑤
まで进出し、ここに要害を筑いた。
この攻囲势に対し、敌方は楼岸⑤と木津⑥を抱えて海上を难波口から通行していた。
この木津さえ押さえれば敌方の通路のすべてを闭ざすことができたため、信长公は攻囲
势にかの地を攻略させようと考えた。そして天王寺砦を佐久间甚九郎信栄と明智光秀に
守らせ、その上で猪子兵介・大津伝十郎を现地へ検使に遣わして木津攻略の方针を伝え
させたのであった。攻衆は、この指示に服した。
そして5月3日早朝、织田势は先阵に三好康长と根来衆・和泉衆、二段に原田直政率い
る大和衆・山城衆という阵容をもって木津へ攻め寄せた。ところが大阪方は楼岸から一
万余もの一揆势を出势させ、织田势を逆に押し包んで数千挺の鉄炮をもって散々に撃ち
立ててきた。このため织田势は上方の人数から一挙に崩れ立ってしまった。これを原田
直政が危ういところで支え、敌势と数刻に渡って激戦を缲り広げたが、やがて敌の猛势
に取りこめられるに至ってしまった。ここに原田直政をはじめとして塙喜三郎・塙小七
郎・蓑浦无右卫门・丹羽小四郎といった士が一同に枕を并べて讨死を遂げたのであった
。胜ちに乗じた一揆势は天王寺砦まで押し寄せ、佐久间信栄・明智光秀・猪子兵介・大
津伝十郎・江州衆らの守势を囲んでひた押しに攻め立ててきた。
この时、信长公は京都にあった。そこでこの败报を受けた信长公は、すぐさま诸国へ
阵触れを発した。
( ①前年10月に和睦を申し入れた本愿寺であったが、この年春再び挙兵していた。 ②
现大阪市都岛区・福岛区(前出) ③现守口市か ④现交野市か ⑤现大阪市东区 ⑥现
大阪市浪速区)
4、天王寺 (御後巻再三御合戦の事)
阵触れ後、信长公は军势の参着を待たずしてみずから後诘に出马した。5月5日、明
衣の軽装にわずか百骑ばかりの供廻りのみを率いて出京した信长公は、同日のうちに若
江に到着した。そして次日も若江にとどまり、先手の様子などを闻きつつ人数が揃うの
を待ったが、急な阵触れのこととて军势は待てども集まらなかった。下々の兵や人足た
ちが遅々としてなかなか到着せず、将领のみが先に着阵しているといった有様であった
。
しかしながら状况は犹予を许さず、现地からは「三日五日は抱えがたし」との注进が
矢のように届いていた。ここで信长公は「かの者等を攻め杀させては、世上の非难は必
定たるべし。それは无念である」と言い、5月7日わずか三千ばかりの兵で出撃し、一
万五千もの敌势へ打ち向かっていったのであった。
信长公は三千の兵を三段に备え、住吉口から突入していった。
先手第一段は佐久间信盛・松永久秀・细川藤孝と若江衆であった。なおこのとき荒木
村重は信长公から先阵をつとめるようにとの仰せを受けたが、村重は「我々は木津口の
押えを仕る」といって受けなかった。このことを後になって信长公は、荒木に先をさせ
ず正解であった、と回顾したということである。
続く第二段は滝川一益・蜂屋頼隆・羽柴秀吉・丹羽长秀・稲叶一鉄・氏家直通・安藤
守就が务め、最後の第三段は马廻が固めた。そして信长公自身は先手の足軽に混じって
戦场を駆け巡り、各所に下知をくだして総军を指挥したのであった。そのさなかで信长
公は薄手を负い、また足に鉄炮を受けたが、天道の照覧あって致命伤には至らなかった
。
この戦场において大坂方が织田势へ数千挺の鉄炮を放つさまは、降りしきる雨のごと
くであった。しかし织田势はその中を悬命に防ぎつつ敌势を切り崩し、血路を开いて天
王寺へ駈け入り、砦衆と一手になることに成功した。しかし敌は大军であり、引き扬げ
ることもなく人数を立て直して攻囲の态势を固めつつあった。
これに対し、信长公は诸将へ重ねて一戦に及ぶ旨を告げた。将たちは味方の无势を考
え、「合戦は御远虑なされるが最上」と口々に諌めたが、信长公は「か様に间近く寄合
わせたるは天の与うる所である」といってこれを退けた。そして军势を二段に立て备え
ると、そのまま城外へと讨って出たのであった。
そして、织田势は敌を追い崩した。だけでなく大坂本愿寺の城戸口まで追撃し、敌首
二千七百余を讨ち取ることに成功したのであった。
この戦ののち信长公は石山本愿寺の四隅に十の付城を筑かせ、天王寺には佐久间信盛
・同信栄・进藤山城・松永久秀・同久通・水野监物・池田孙次郎・山冈景宗・青地千代
寿らを定番に入れた。また住吉の浜手にも要害を设け、海上の警固として真锅七五三兵
卫と沼野伝内を入れ置いた。
信长公は6月5日になって帰阵の途につき、当日は若江に泊まった。そして翌日帰洛
前に槙岛へ立ち寄り、この地を井戸若狭に与えた。かたじけなき次第であった。その日
信长公は入京して二条妙覚寺に入り、翌日になって安土へ帰城した。
7月1日からは安土普请の命が重ねて下された。命を受けた者达はいずれも粉骨の働
きをしたため、或いは御服、或いは金银・唐物と、下された褒美の品々はその数を知れ
なかった。なお、この时期丹羽长秀は信长公の意によって名物市絵を所持しており、ま
た羽柴秀吉は同じく名物の大轴の絵を求めて所有していた。両人がそろって名物を所持
していたというのも、信长公の威光の赐物であるといえた。
5、木津川口海戦 (西国より大船を催し木津浦船军、歴々讨死の事)
7月15日のことであった①。中国安芸の内に拠る能岛・来岛・児玉大夫・粟屋大夫・
浦兵部らの水军衆が、七、八百艘もの大船からなる大船団を催して大坂の海上へ现れた
。船団の目的は、水路より本愿寺へ兵粮を入れることにあった。
この船団に対し、织田方からは真锅七五三兵卫・沼野伝内・沼野伊贺・沼野大隈守・
宫崎鎌大夫・宫崎鹿目介・尼崎の小畑氏・花隈の野口氏らが応戦に出、舟艇三百余艘で
木津川口を固めた。しかし敌は大船八百艘の大群であり、その大戦力をもってまっすぐ
织田水军の中へ打ち入ってきた。ここに両军相乗りかけての水戦が展开されたのであっ
た。
一方陆でも大坂の楼岸や木津の秽田城②から一揆势が出势し、足軽を先头に住吉浜手
の城へ攻めかけてきた。これに対しては天王寺から佐久间信盛が出撃して一揆势の横手
を冲き、双方押しつ押されつの激戦を数刻にわたって缲り広げた。
しかし、その间にも海上の织田势は败亡の色を深めつつあった。敌方は多势を活かし
、织田方の船を囲んでは焙烙玉や火矢を投げかけて船を焼き崩していったのである。织
田方は多势の前に抗うこともできず、真锅七五三兵卫・沼野伊贺・沼野伝内・野口・小
畑・宫崎鎌大夫・宫崎鹿目介らをはじめ数多の将兵がつぎつぎに讨死を遂げていった。
西国衆は大胜を得た。かれらは目的通り大坂への兵粮入れを果たし、西国へ引き返し
ていった。信长公はみずから後诘に出马すべく准备を急いでいたが、その前に味方の败
报が届き手立てを失った。城将らが讨死した住吉浜の城には、新たに保田久六・?井因
幡守・伊知地文大夫・宫崎二郎七が番手として入れ置かれた。
一方、安土山の普请はこの间にも着々と进められていた。
このうち天主の造りは以下のごとくになっていた。
一重
石垣の高さ十二间余。石垣の内は土蔵として使用。天主はこれを一重目と数えて全七
重からなる。
二重
石垣上に広さ南北二十间、东西十六间半余り。柱数は二百四本。本柱は长さ八间、太
さ一尺五寸・六寸四方木と一尺三寸四方木を用いる。座敷内の柱はことごとく布で饰り
黒漆を涂る。
西侧十二畳敷の间は狩野永徳の描いた梅の墨絵で饰り、絵の上下にはすべて金の装饰を
施す。间内には付书院が设けられ、そこには远寺晩钟の风景画が描かれて前に盆山が置
かれた。次室の四畳敷には棚に鸠の絵。その向こうの十二畳敷には鵞鸟の絵が描かれた
ため、この间は鵞の间と呼ばれた。十二畳敷の次の间は八畳敷、奥の间は四畳敷で、四
畳敷の间には雉の子を爱でる図柄の絵が描かれた。
南侧には唐の儒者の袄絵を饰った十二畳敷の间があり、これに八畳敷が続いた。
东侧は十二畳敷の间に三畳敷、八畳敷の间が続き、この八畳敷が御膳拵えの间として使
われた。八畳敷の隣にはもうひとつ八畳敷の间があり、こちらも同じく御膳の间に使わ
れた。その向こうには六畳敷の间が二つ続いており、纳戸として使用された。二つの部
屋はいずれも金絵で装饰されていた。
- 北には土蔵があり、その隣の座敷は二六畳敷の纳戸となる。二六畳敷の西侧には六
畳敷・十畳敷・同じく十畳敷・十二畳敷の间が続き、いずれも纳戸として使われた。纳
戸の数は合わせて七つ。また阶下には金灯笼が置かれた。
三重
十二畳敷の间を花鸟の絵で饰る。これをもって花鸟の间と呼ぶ。一段上がって四畳敷
の御座の间があり、同じく花鸟の絵を描く。
南は八畳敷の间があり、贤人の絵と瓢箪より驹の画题の絵で饰る。
东には麝香の间と呼ばれる八畳敷の间と十二畳敷が御门の上に位置する。次室の八畳敷
には吕洞宾という仙人と「ふゑつ」③の説话を题材にした絵が描かれた。
北は二十畳敷の间に驹の牧场の絵を饰る。隣には十二畳敷が続き、西王母④の図が描か
れる。
西侧には絵はなく縁二段の広縁となる。このほか二四畳敷の纳戸があり、纳戸の口には
八畳敷の座敷が位置する。柱数は一四六本。
四重
西侧十二间の板间に岩に木々色々の絵を描き、岩の间と呼ぶ。同じく西侧の八畳敷に
は龙虎争闘の図。
南侧十二间の板间に色々竹を描いて竹の间となす。次室十二间の板间には松ばかりを描
き、こちらは松の间と名付ける。
东の八畳敷には桐に凤凰の絵。次の八畳敷には「许由耳を洗えば巣父牛を牵いて帰る」
⑤の故事を、许由・巣父両人の出た故郷を背景に描く。その向こうの七畳敷の小座敷に
は絵は描かれず、金泥のみで装饰された。
北にも十二畳敷。ここには絵はなし。次室は同じく十二畳敷で、室内西二间のところに
手鞠桜の図が描かれた。続く八畳敷の间は庭笼に入った鹰の子を描いた风景画で饰られ
たため、御鹰の间と呼ばれた。柱数は九十三本。
五重
絵はなし。南北の破风口にそれぞれ四畳半の座敷があった。ここは小屋の段といった
。
六重
四间の八角堂となる。外柱は朱で涂り、内柱はすべて金で装饰された。内部は釈门十
大御弟子や釈尊成道御説法⑥などの仏絵で饰り、縁には饿鬼や鬼の図が描かれた。縁轮
の鳍板には鯱や飞龙を描き、高栏には拟宝珠の雕物が饰られた。
七重
三间四方。座敷内は皆金で、外侧もすべて金。四方の内柱には昇り龙・降り龙、天井
には天人御影向図⑦を描く。座敷内は三皇・五帝・孔门十哲・商山四皓・七贤などの絵
が描かれ、十二个の火打ち金と宝铎で饰られた。狭间戸は鉄制で数は六十ほどもあり、
すべて黒漆で涂り上げられていた。柱は座敷の内も外も漆と布で饰られ、その上に黒漆
が重ねて涂られた。
最上层の金具类は後藤平四郎の手によるもので、京及び周辺の职工たちが手を尽くし
て细工した。二层目以下には京の躰阿弥の金具が用いられた。筑造にあたったのは大工
の冈部又右卫门、涂师头の刑部、白金屋の大工宫西游左卫门で、瓦は唐人の一観の指导
に基づいて奈良衆が焼いた。普请奉行は木村二郎左卫门がつとめた。
( ①正しくは7月13日 ②现大阪市浪速区内 ③殷の宰相の名 ④仙女の名 ⑤许由
・巣父とも中国古代の隠者 ⑥釈迦が悟りを得て説法を行うまでの説话 ⑦神仏の现世
出现の図)
6、安土远景 (安土御普请首尾仕るの事)
安土城は広々とした深山の内に筑かれ、麓には城馆が歴々と甍を并べていた。家屋敷
が轩を継ぎ、阳光に照らされて光り辉くその壮丽さは、まことに申し尽くせぬものがあ
った。
城の西北は湖水漫々として舟の往来は殷赈をきわめ、湖上に浮かぶ远浦帰帆・渔村夕
照・浦々の渔火といった光景は潇湘八景の絵を见るがごとくであった。湖上には名高い
竹生岛が浮かんでいたほか、竹岛という名の厳々とそびえ立つ岩岛なども浮かんでいた
。暁夕には奥岛①・长命寺観音の晩钟の音が湖上を伝って人々の耳に触れ、湖水の向こ
うには比良の岳②・比叡の大山・如意岳③の山々が浮かんで见えた。
南は郷村の田畑が平々と広がり、その中に姿を富士にたとえられる三上山④が横たわ
っていた。また东には観音寺山⑤が连なり、山の麓には街道が延々と伸びて人々の往还
が昼夜絶えなかった。山南には湖から入江が伸びて果てもなく広がり、城壁・城馆が山
下まで门を并べ、建物をかすめて吹き抜ける湖风の音がかまびすしかった。
城の造作も绚烂をきわめていた。御殿は唐様に仕立てられて将军の御所を模し、玉石
・瑠璃を散りばめ、诸职人の美のかぎりがつくされていた。まことに花の都を移したが
ごとき美々しさで、御威光・御威信のほどは计りしれようもなかった。
この时期信长公へは松花の壶・金花の壶といった名宝の品々が进上され、その机嫌を
良からしめていた。また同时に六角承祯の家に代々伝わっていた真鸟羽根付き节无しの
矢轴という名宝も布施三河守によって探し当てられ、信长公に献上されるところとなっ
た。このように信长公のもとへは诸方から古今稀なる名宝の数々が集まり来っていた。
ところで先年⑥に佐和山で制造された大船は、このときまだ作り上げられたままに残
されていた。この大船は以前に公方様が谋叛を起こしたみぎりに一度使用されたことが
あったが、信长公は「この上は、大船は必要なし」と判断し、猪饲野甚介に命じて船体
の解体を行わせた。そうして新たに早舟十艘に作り変えさせたのであった。
その後11月4日になって信长公は上洛の途につき、陆路をとって瀬田を抜け、二条妙
覚寺に入って宿泊した。上洛中の12日には中国より赤松広秀・别所小十郎长治・别所孙
右卫门重宗・浦上远江守宗景・浦上小次郎らが参礼に访れた。
( ①现近江八幡市冲岛 ②现大津市~高岛町间の群峰 ③现京都市左京区内、大文字山
④现野洲町内 ⑤现安土町内、安土山に隣接 ⑥1573(元亀四)年、巻六第五段~六段)
7、以徳报官 (御官を进められ御衣拝领の事)
この年天正4年丙子の11月21日、信长公は重ねて内大臣に官を进められた。このとき
信长公は摂家・清华家などの公卿へ知行を加えたほか、禁中へも黄金二百枚・沈香・巻
物など数と赘を尽くした名宝の品々を献上した。禁中からは报礼としてかたじけなくも
御衣が下赐され、名誉・面目これに过ぎたるものはなかった。
その後信长公は昇官の吉例によって石山寺世尊院にのぼり、ここで山冈景隆・景犹兄
弟の祝贺の膳を受けた。石山では二日のあいだ放鹰を楽しみ、11月25日になって安土へ
戻った①。
( ①なお同月信长の内意により前伊势国司の北畠具教が杀害されている。)
8、御鹰野 (三州吉良御鹰野の事)
12月10日、信长公は吉良で鹰野を行うため东下し、佐和山へ宿泊した。そして11日に
岐阜へ入り、翌日まで逗留した。13日には尾张清洲まで下り、22日になって三河国吉良
に到着した。吉良には三日间滞在し、その间鹰野で数多くの获物を得た。
信长公は26日になって帰着の途につき、同日清洲まで返した。そして12月晦日になっ
て美浓へ入り、そのまま岐阜で越年した。
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