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资料来源 http://home.att.ne.jp/sky/kakiti/shisaku.html 括弧内文字 标题後为网页中小字 段落後则为注释 信长公记 巻七 天正二年(1574年) 薄浓の首~兰奢待切り取り~长岛一向一揆歼灭 天正二年   1、薄浓  (义景・浅井下野・浅井备前三人首御肴の事)  この年の正月元日、岐阜には京都および近国の武将たちがこぞって年贺の礼に访れた 。城では酒宴が催され、参集した诸将はそれぞれに三献の歓待を受けた。  そして盛大な宴が终わり、外様衆が退出したあと、马廻だけを残しての内宴が行われ た。 その席上、おそらく古今谁も见闻したことのない珍奇の肴が供せられた。  その肴とは、 朝仓义景首 浅井久政首 浅井长政首 であった。この三つ首を薄浓①にして白木の台に据えたものを宴席に置き、それを肴に 酒宴を行ったのである。宴は謡や游兴で盛り上がり、诚にめでたき有様で信长公も満悦 の様子であった。 ( ①漆で固めて金等で彩色したもの)   2、越前扰乱  (前波生害、越前一揆蜂起の事)  正月19日、越前の前波吉継①が国中の诸侍に攻め溃されて死んだとの报が岐阜の信长 公へもたらされた。前波は先年より信长公によって越前国守护代に任ぜられていたのだ が、地位に溺れるあまり恣意の振舞いが多く、かつての同僚に対しても万事につき无礼 な态度をとっていた。そのため国内の地侍たちは愤激し、一揆を结んで前波を攻め杀し てしまったのである。地侍たちはその上で国境の地に要害を构えて防备を固めたため、 越前国は一揆持ちの国と相成ってしまった。  これに対し、信长公はひとまず羽柴秀吉・武藤宗右卫门舜秀・丹羽长秀・不破光治・ 同直光・丸毛长照・同兼利および若州衆を敦贺へ遣わし、备えを固めさせた。 ( ①前波吉継は别名桂田长俊、前波长俊とも)   3、明智城赴援  (明智の城いいばさま谋叛の事)  さらに正月27日には、武田四郎胜頼の军势が岩村①へ侵入して明智城②を囲んだとの 飞报が届いた。この武田势の来攻に対し、信长公はすぐさま後诘の派遣を决め、2月1 日まず浓尾両国の人数を先阵として向かわせた。そして5日になって信长公父子も出马 し、その日は御嵩③に阵を取った。  翌6日、信长公は高野④へ阵を移し、翌日にも武田势へ戦いを挑もうとした。しかし 一帯は険山の连なる天然の节所となっており、织田・武田両势ともなかなか身动きがと れず、互いに攻撃を开始できずにいた。信长公はそれでも「山々へ移りつつ手遣いせよ 」と命じて作戦を続けようとしたが、その间に城中で饭羽间右卫门が谋叛を起こして城 が落ちてしまった。  城が落ちてしまっては是非もなかった。信长公は军势を返し、高野に城を普请して河 尻秀隆を入れ、また小里⑤にも付城を筑いて池田恒兴に守らせ、両名をして武田势に备 えさせた。  そして2月24日になり、信长公は嫡子信忠殿とともに岐阜へ引き扬げた。  3月12日、信长公は上洛のため岐阜を発ち、佐和山へ入って数日滞在した。そして16 日永原へ宿泊したのち17日に志那から坂本へ渡った。 ( ①现岐阜県岩村町内。なお岩村城は元亀3年(1572年)より武田方の城となっていた。) ( ②现明智町 ③现御嵩町 ④⑤ともに现瑞浪市内)   4、兰奢待  (兰奢待切捕らせらるるの事)  上洛した信长公は初めて相国寺に宿を取り、ここから内里へ南都东大寺に眠る名香兰 奢待を所望する旨の奏闻を行った。すると内里では3月26日に日野辉资殿・飞鸟井大纳 言殿の勅使を南都に下し、东大寺へ兰奢待切り取りの院宣①が下された旨を伝えさせた 。勅諚を拝受した东大寺の僧衆は、兰奢待の开封を认めた。  信长公は香木切り取りのため27日、原田直政・菅谷长頼・佐久间信盛・柴田胜家・丹 羽长秀・蜂屋頼隆・荒木村重・武井夕庵・松井友闲・津田坊らの奉行衆を従えて奈良多 闻山城へ入った。  28日辰の刻、仓②が开かれた。かの名香は长さ六尺の长持に纳められていた。香はす ぐに多闻山城へ运ばれ、城中御成の间に据えられた。そして诸将が注视する中、信长公 は古法に従い兰奢待の香木から一寸八分四方を切り取った。信长公は「末代までの物语 にせよ」と、切り取った香木を御供の马廻に披露した。  现世の思出としてこれに过ぎたるものはなく、またこれほど威光に満ちた出来事はな かった。そもそも兰奢待の名香は寛正の昔に东山殿が切り取りを许されて以来③、将军 家の内で所望する御方が迹を絶たなかったものの、今に至るまで结局谁一人として许さ れることのなかった秘宝であった。その秘宝が、このたび仏天の加护あって信长公へ下 されたのである。三国に隠れなき名物を手にしたその栄誉は、何事にも换えがたいもの であった。  4月3日、大坂の石山本愿寺がふたたび敌対の狼烟を上げた。信长公はすぐさま兵を 大坂へ向かわせ、田畑薙ぎと放火を行わせた。 ( ①「纶旨」の误记か、「院宣の形式を取った勅諚」の意のどちらか ②正仓院 ③寛 正6年(1465年)、东山殿足利义政が切り取りを许される)   5、寒雨  (佐々木承祯石部城退散の事)  4月13日、甲贺口の石部城①に拠っていた六角承祯が、夜间雨に纷れて城を退散した 。後には佐久间信盛の人数が入れ置かれた。 ( ①现滋贺県石部町。元亀以来、六角父子は甲贺地方を基盘に信长へ抵抗を続けており 、この石部がその最後の拠点となっていた。)   6、贺茂の御神事  (贺茂竞马御马仰付けらるるの事)  5月5日は贺茂の例祭で、竞马の御神事に天下が祈祷をささげる日であった。この时 期幸いに在洛していた信长公のもとへは、神事に竞わせる马を出してほしいとの要请が あった。信长公はそれを了承し、数々の合戦に乗りまわした芦毛・鹿毛の马二头に马廻 の骏马十八头を加えた都合二十头、番数にして十番分を出すことを决めた。信长公はそ れだけでなく二十头分の鞍・镫・辔をすべて名物の马具で完装させ、おびただしい进物 をつけて送り出した。随行した近习たちの装束の美々しさも、また上古に例のないほど であった。  神事では黒装束の祢宜十人と赤装束の祢宜十人とが二十头の马にまたがり、一番ずつ 马を走らせて胜负を竞った。信长公の芦毛・鹿毛の乗马は元来が骏马であったため、い ずれも胜ち马となった。集まった群集は老若贵賎とも一代の盛事に歓喜した。  その後信长公は京にあって天下の诸色を沙汰し、5月28日①になって岐阜へ下った。 ( ①正しくは5月16日、武田氏へ対応するため岐阜に帰还)   7、要陥つ  (高天神城小笠原与八郎谋叛の事)  6月5日、武田胜頼の军势が小笠原氏の拠る远州高天神城①へ攻め寄せたとの报が入 った。これに対し、信长公はみずから後诘に赴くべく6月14日嫡男信忠殿とともに浓州 岐阜を発った。そして17日に酒井左卫门督忠次居城の三河国吉田城に入った。  しかし19日、信长公父子が今切の渡し②に差しかかったとき変报が届いた。城中で小 笠原与八郎が逆心し、惣领家を追放して武田势を引き入れてしまったというのである。 これを闻いた信长公は致し方なく马首を返し、吉田城に引き返した。吉田城には远州浜 松から徳川家康も下ってきていた。 ( ①现静冈県城东村 ②浜名湖の渡し)   8、一城万金  (黄金家康公へ进ぜられ候事)  徳川家康は信长公に、今回の後诘に対する谢礼を申し述べた。しかし信长公は自身が 援军に赴きながら合戦に至れなかったことを无念とし、兵粮代として黄金入りの皮袋二 つを马につないで家康へ赠った。  赠られた徳川家では、ためしに袋を家中の者に持ち上げさせてみた。すると袋は二人 がかりでやっと一つを持ち上げられるほどの重量があった。人々は赠られた黄金のあま りの量に惊き、上下を问わず见物に集まっては「このようなことは、昔にも闻き及んだ 事がない」といって耳目を惊かせた。  これにより人々は信长公の威光をあらためて感じたのであった。これほどの财物を赠 られた家康の心中は、计りしれないものがあった。  そして6月21日になり、信长公父子は浓州岐阜へと帰阵した。   9、长岛歼灭  (河内长嶋一篇に仰付けらるるの事)  7月13日、信长公は河内长岛を讨灭すべく息子信忠殿とともに军を発し、同日津岛に 着阵した。  尾张国河内から伊势长岛に及ぶ一帯は隠れもない节所であり、美浓より流れ出る川々 が几条とも知れず流れ集まっていた。それらの河川のうち大なるものとしては岩手川・ 大滝川・今洲川・牧田川・一之瀬川・杭瀬川・山口川・飞騨川・木曽川・养老の滝で知 られる养老川などがあり、これらの大河に加えて周辺の山々から流れ出る谷水もこの地 で合流して一个の大流を形成していた。そしてこれらの流れは长岛の北・东・西三~五 里の内を几重にも囲みつつ南の海にそそいでおり、その中に位置する长岛はまさに四方 を节所に囲まれた难攻の地であった。  このような特性を持つ长岛には、いつの顷からか地の利を嗅ぎ取った近隣の奸贼・凶 徒が参集し、愿证寺①を崇敬して団结していた。その愿证寺は本愿寺の念仏修行の道理 を基とせず、学问无智ゆえに栄华に溺れ、乱行のうちに日を暮らし、数ヶ所に城砦を筑 いて国方・公方に逆らい、あまつさえ诸国の罪人をも抱えて兵力を蓄えてはその武力で 近隣各所を押领していた。  元亀元年、河内郡小木江に在城していた御舎弟の彦七信兴殿が、浅井・朝仓と対阵中 の信长公の隙を冲いて攻め寄せた一揆势のために割腹して果ててから今に至るまで、信 长公は长岛の一揆势に苦渋を舐めさせられつづけてきた。信长公の憎悪の念はつのる一 方であったが、変転する天下の情势がこれまで信长公に复讐のすきを与えずにいた。  その机会がついに访れたのであった。信长公はこの一戦で长岛に盘拠する一揆势を讨 灭し尽くすことを决意し、7月14日长岛に通ずる诸口へ旗下の大军势を进军させた。  织田势のうち、东からは御嫡男勘九郎信忠殿が市江口②を进み、织田信包・津田半左 卫门秀成・津田又十郎长利・津田市介信成・津田孙十郎信次③・斎藤新五・簗田広正・ 森胜蔵长可・坂井越中守・池田恒兴・长谷川与次・山田三左卫门・梶原平次・和田新介 ・中岛豊後守・関小十郎右卫门・佐藤六左卫门・市桥伝左卫门④・塚本小大膳が従った 。  西は香取口⑤から佐久间信盛・柴田胜家・稲叶一鉄・同贞通・蜂屋頼隆が进み、松之 木⑥の渡りを渡河して対岸で防备を固めていた一揆势を马上より蹴散らした。  主军の信长公は中筋の早尾口⑦へ向かい、木下小一郎秀长・浅井新八・丹羽长秀・氏 家直通・安藤守就・饭沼勘平・不破光治・同胜光・丸毛长照・同兼利・佐々成政・市桥 九郎左卫门④・前田利家・中条将监・河尻秀隆・津田大隈守信広③・饭尾隠岐守が先阵 に立った。  一揆势は小木江村を封锁して中筋の织田势を防ごうとしたが、すぐに突破されてしま った。また筱桥⑧にも人数を出して防备していたが、こちらは木下秀长・浅井新八の両 名が攻撃に当たった。一揆势はさらにこだみ崎⑨の河口に船を取り集め、対岸から进ん でくる织田势を堤上で迎え撃とうとしたが、丹羽长秀の攻撃の前にもろくも打ち崩され た。このほか前ヶ洲・海老江岛・加路戸・いくいら岛⑩の一揆方拠点も同日のうちに焼 き払われた。信长公はこの日五明⑪まで进军し、ここに野営した。  翌15日には海上より九鬼右马允嘉隆の安宅船と滝川一益・伊藤三丞・水野监物らの安 宅船、および岛田秀満・林秀贞の囲船を中心とした大船団が到着し、蟹江・荒子・热田 ・大高・木多・寺本・大野・常滑・野间・内海・桑名・白子・平尾・高松・阿浓津・楠 ・细颈⑫の兵を乗せて一揆势を攻め立てた。また国司御茶筅殿も垂水・鸟屋尾・大东・ 小作・田丸・坂奈井⑬の兵を大船に満载して参阵した。诸方より参じた兵たちの指物が 船上に所狭しと林立するさまは、あたかも绮罗星云霞を见るがごとくであった。兵力を 増强した织田势は长岛へ通ずる诸口から攻め上がり、四方より取り诘められた一揆势は 妻子を引き连れて长岛へ逃げ入った。  信长公父子は殿名⑭へ移り、前线にほど近い伊藤屋敷に本阵を构えた。そしてみずか ら马を駈け回して周辺の地形を见、诸势の阵割りを行った。  敌势は筱桥・大鸟居⑮・屋长岛⑯・中江⑰・长岛の五所に立てこもっていた。これら に対し、织田势からは津田信広・津田信成・津田长利・氏家直通・安藤守就・饭沼勘平 ・浅井新八・水野信元・横井雅楽守が筱桥口へ向かい、大鸟居には柴田胜家・稲叶一鉄 ・同贞通・蜂屋頼隆が今岛⑱に阵を取り、川手から大船を寄せて攻め立てた。また坂手 の郷⑲には押えの人数として佐久间信盛父子が江州衆とともに阵を张った。さらに长岛 の东推付の郷⑳には市桥长利・不破胜光・丹羽长秀が布阵し、加路戸岛口には织田信包 ・林秀贞・岛田秀満ほか尾张衆の船団百艘が海上を埋めて攻め寄せた。また南の大岛口 からも御本所信雄殿・神戸三七信孝殿と桑名衆が伊势の大船団を率いて攻め上がった。  大鸟居・筱桥へ寄せた诸势は大鉄炮をもって塀・橹を打ち崩し、间隙を与えず猛攻を 加えた。観念した一揆势は降伏赦免を求めてきたが、信长公は断固として许さなかった 。信长公はかれら奸悪の徒を干し杀しにすることで、年来の乱妨狼藉の报いを受けさせ ようとしていた。  そのような状态が続く中、8月2日夜大鸟居に笼城していた一揆势が夜间风雨に纷れて 脱出を図った。しかし织田势はそれを见逃さず、追撃して男女一千ほどをなで斩りにし た。また8月12日には筱桥の一揆势が砦を払って长岛の本城に退きたい旨を申し出てき た。信长公はこれを许し、一揆势を长岛へ追い込んだ。 ( ①现三重県长岛町杉江に所在 ②现爱知県佐屋町・弥富町间 ③津田秀成・长利・信 成・信次・信広はいずれも织田一族で、织田家の傍流は津田姓を称する场合が多かった 。 ④いずれかが市桥长利か、市桥利尚 ⑤现三重県多度町香取 ⑥现长岛町松之木  ⑦现爱知県佐织町早尾 ⑧现长岛町、木曽川敷内 ⑨现弥富町大字コタミ ⑩いずれも 长岛东方に位置する一揆方拠点 ⑪现弥富町五明 ⑫いずれも尾张・伊势の湾岸地域  ⑬伊势中南部 ⑭现长岛町殿名 ⑮现三重県多度町大鸟居 ⑯现三重県桑名市内 ⑰现 桑名市福岛 ⑱现桑名市今岛 ⑲现长岛町上坂手・下坂手 ⑳现长岛町押付 ) 10、死働き  (樋口夫妇御生害の事)  この顷、木芽峠①には一向一揆に备えて织田方の砦が筑かれ、樋口直房が入れ置かれ ていた。しかしこの8月、いかなる理由によるものか樋口は突如として砦を出奔してし まい、妻子を引き连れ甲贺へ退転しようとはかった。しかしその迹を羽柴秀吉の追手が 追迹し、道中で夫妇もろとも讨ち果たした。二人の首は长岛の阵所まで运ばれ、信长公 の実検を受けた。  长岛の阵は、一揆势の思いもよらぬ长阵となった。7月13日に贵賎数知れぬ男女が长 岛・屋长岛・中江の三ヶ所に逃げ入ってからすでに三ヶ月が経过し、过半はその间に饿 死していた。もはや抵抗する力も尽き果てた一揆势は、9月29日ついに降伏开城した。  降伏を许された一揆势は、めいめい船に乗って城砦を出ようとした。しかし织田势は 彼らに鉄炮を扫射し、逃げた者は白刃をもって追い、际限なく川へ斩り落としていった 。  织田势の违背を知った一揆势は怒り狂って死を忘れ、心ある者七、八百ばかりが裸体 に抜身一本のみをたずさえて织田势の中へ突入していった。かれらは大军の中を死兵と なって荒れ狂い、阵所を切り崩し、御一门衆をはじめ数多の将兵を讨死に追い込んだ② 。彼らは大军の中を切り抜けて无人の阵小屋に駈け入り、そこで支度を整え、川を越え て多芸山・北伊势口へ散り、そこから大坂へ逃れた。この失态をみた信长公は、残る中 江・屋长岛の両砦に対しては周囲に栅を几重にも廻らして砦の男女二万人を取り笼め、 四方より火をかけて焼杀してしまった。  年来の苦しみを晴らした信长公は、29日岐阜へ帰阵した。 ( ①现福井県敦贺郡・南条郡境の峠 ②庶兄信広、叔父信次、弟秀成ほか一门衆の多く が讨死した。) --



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