作者Eiichirou (水曜日的情事)
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标题[史料] 信长公记 卷五 元亀三年(1572年)
时间Wed Mar 19 09:09:37 2008
资料来源
http://home.att.ne.jp/sky/kakiti/shisaku.html
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信长公记
巻五 元亀三年(1572年) 三好・松永背反~江北出兵~三方ヶ原の戦い
元亀三年
この年3月5日、信长公は江北に出兵して赤坂に阵を取り、翌日横山まで进んだ。そ
して7日に小谷と山本山の间五十町の地に进出し、ここに阵を据えて与呉・木本方面を
放火した。江北の诸侍はかねがね、「与呉・木本へは、途中节所を通らねばたどり着け
ぬ。もし织田势かの地を攻むることあらば、われらはその场所にて一戦に及ぶべし」と
広言していたが、结局足軽の一兵さえ出すことはなかった。信长公は何ら妨害を受ける
ことなく作戦を遂行し、9日无事横山に军势を収めた。翌10日は常楽寺に宿泊し、11日
になって志贺郡へ出阵した。信长公は和迩に阵を构えて木戸・田中の両城を囲ませ、付
城を筑いて明智光秀・中川重政・丹羽长秀の三名を置いた。
1、建设と政略と (むしやの小路御普请の事)
信长公は木戸・田中の攻囲を明智ら三将にまかせ、みずからは3月12日京へのぼった
。宿は二条妙覚寺に定めた。
このように细々にわたる上洛にもかかわらず、信长公はいまだ京都に自分の屋敷を构
えてはいなかった。そこで今回信长公は上京武者小路の空き地①に在京时の邸宅を建设
することを考え、その旨を公方様へ申し入れた。公方様はすぐさまこれを许し②、将军
义昭の名で屋敷の建造をとり行いたいと伝えてきた。
信长公は数度にわたってこの申し出をことわった。しかし度重なる上意があり、信长
公も断りかねてついに応じた。かくして尾张・美浓・近江三国の信长公御供衆は普请役
を免除され、かわりに畿内诸势力の面々が在洛して邸宅の建筑にあたることとなった。
3月24日、锹始めの仪がとり行われた。筑地に受持ちの部署ごとに舞台がつくられ、
その上で美々しい出立ちをした稚児や若衆が笛・太鼓を手に拍子を合わせて囃し立てた
。集まった者たちは大いに兴に乗じた。
そうでなくても千年の王城には人が満ち満ちて、普请の始めから终わりまで见物の群
集はあとを絶たず、访れる人々は贵賎を问わずいずれも花を手折り、衣服の袖を连ねて
芳香を四方にただよわせ、仕立に工夫をこらしていた。そのさまは、天下に平穏の到来
を思わせた。
なお普请奉行には村井贞胜と岛田秀満が任じられ、大工栋梁は池上五郎右卫门に申し
付けられた。また建设期间中は细川昭元殿と岩成友通が初めて信长公のもとに参向し、
大坂の石山本愿寺からも万里江山の一轴と白天目の茶碗が赠られてきた。
( ①上京武者小路通の徳大寺邸迹地 ②义昭は以前より信长に京都屋敷を建设するよう
指示していた。)
2、地鸣 (交野へ松永取出仕候、追ひ払はるるの事)
このような情势の中、三好义継が不意に非义を起こした①。松永久秀・右卫门佐久通
亲子と语らい、畠山昭高殿に対して枪を向けたのである。かれらは畠山殿の配下安见新
七郎の居城交野城②を囲み、城の周りに付城を筑いて山口六郎四郎・奥田三河の両名を
大将とする兵三百を置いた。これは松永久秀の指図によるものであった。
この知らせを闻いた信长公は、すぐさま讨伐の军势を派遣した。命を受けた佐久间信
盛・柴田胜家・蜂屋頼隆・斎藤新五・稲叶一鉄・氏家左京亮直通・安藤守就・不破光治
・丸毛长照・多贺新左卫门らに五畿内公方衆を加えた後诘めの大军は、直ちに交野へ駆
けつけて敌の付城を取り囲み、四方に鹿垣を结んで敌を中に取り込めた。しかし敌势は
风雨に纷れて脱出してしまった。こののち三好义継は若江城に立てこもり、松永久秀は
大和信贵山城に、息子久通は奈良多闻山城にそれぞれ在城した。
5月19日、京での政略にひと区切りをつけた信长公は浓州岐阜へ帰った。
( ①畠山昭高は信长の妹婿。义継のこの行动は信长と、表面上はいまだ信长と协调関系
にある将军义昭に対する「非义」ということになる。 ②现大阪府交野市)
3、戦野 (奇妙様御具足初に虎後前山御要害の事)
7月19日、信长公は嫡男奇妙殿の具足初めにともない、父子そろって江北表へ出兵し
た。初日は赤坂に宿阵して翌日横山に至り、21日浅井氏居城小谷まで押し寄せてひばり
山・虎御前山へ军势を上げた。そして佐久间信盛・柴田胜家・木下藤吉郎・丹羽长秀・
蜂屋頼隆に命じて町口を破らせ、一支えも许さず敌を城の水场まで追い上げ、数十人を
讨ち取った。あとには柴田胜家・稲叶一鉄・氏家直通・安藤守就らが先手として阵を敷
いた。
次日には阿闭淡路守の笼る山本山城へ木下藤吉郎が遣わされ、山麓へ放火をはたらい
た。すると城内から百余りの足軽が讨って出、放火を阻止しようとしてきた。藤吉郎は
あわてず、顷合を见计らって敌势へ一斉に切りかかり、打ち崩して五十余の首を挙げた
。これにより藤吉郎は信长公から多大な褒赏を受けた。
翌23日は与呉・木本にも兵を遣わし、地蔵坊①をはじめ堂塔伽蓝・名所旧迹にいたるま
で一切を余さず焼き払った。
また翌24日には草野の谷②へ放火した。この草野近くの高山の上には大吉寺という五
十余りの坊をもつ大寺があり、ここに近郷の一揆百姓が立てこもっていた。信长公はこ
れを攻略しようとし、日中にまず険峻な正面口を避けて山麓付近を袭わせた。そして夜
になってから木下藤吉郎势・丹羽长秀势を後方に迂回させ、背後の山づたいに寺へ攻め
上らせた。山顶に上がった织田势は、一揆・僧俗数多を切り舍てた。
この间琵琶湖上には打下③の土豪林与次左卫门・明智光秀・猪饲野甚介・山冈景犹・
马场孙次郎・居初又二郎らが兵船を浮かべ、海津浦④・塩津浦⑤・与呉の入海⑥に出没
して敌岸を焼き払っていた。また竹生岛⑦にも船を寄せ、火矢と大筒・鉄炮をもって攻
めたてた。
これら一连の行动により、一揆というそれまで江北にはあまり例のなかった企てを起
こして蜂起していた辈は、风に木の叶の散るごとくに一扫された。そして一揆势が散り
、また猛势の织田势が自领の田畑を薙いでゆくのをみすみす见逃してしまった浅井氏の
势力は、次第に手薄なものとなっていった。
27日からは小谷攻囲のため虎御前山に要害が筑かれはじめた。すると焦虑した浅井氏
は、越前朝仓氏へ向かい「このたび河内长岛の一揆が蜂起して尾浓の通路を闭ざし、信
长を大いに难仪させている。この机会に朝仓殿が江北表へ出马すれば、尾浓の人数を悉
く讨ち果たすことは容易である」と伪りの情报を送り、出兵を促した。
朝仓氏ではこの伪情报を信じ、当主朝仓义景みずからが一万五千の兵を引き连れて出
马してきた。そして29日には小谷に参着したが、そこでようやく江北の戦况が闻き及ん
でいた情报とはまったく异なることに気付いた。一気に消沈した朝仓势は、大岳⑧の高
地へのぼって滞阵してしまった。
このさまを目にした信长公は、足軽を使って朝仓势を小当てに攻めさせることを命じ
た。すると阵中の若武者たちはそれを闻いて勇跃し、旗指物を外して山に分け入り、日
ごとに二つ三つと首を取ってきた。信长公は彼らに対し、その功名の軽重に応じて十分
な褒赏を与えてやったため、彼らはますます発奋して首取りに励んだ。
そのようにして対阵が続いていたところ、8月8日になって越前势から前波九郎兵卫
吉継父子が内通してきた。信长公はこれを闻いて大いに喜び、父子へ小袖・马および马
具一式を与えた。翌日にはさらに富田弥六长繁・戸田与次・毛屋猪介らも投降し、各々
信长公より褒赏が下された。
虎御前山の要害はほどなくして无事完成した。城郭は巧妙かつ坚牢に设计され、山上
からは四方をはるか远くまで见渡すことができ、その风光は素晴らしいものであった。
ひとびとは、「かように见事な要害は见たことがない」と耳目を惊かせた。
この要害の座敷から北を望めば浅井・朝仓势が大岳の山上にあって苦虑しているさま
が见え、西を见ればおだやかな湖面の向こうに比叡の山并みを见渡すことができた。そ
の比叡山はかつては尊い霊场であったが、先年山门の宗徒が逆心を企て、その自业自得
により山上山下ともが灰烬に帰した。信长公が积年の愤りを散じ、存分のままに罚を下
した场所であった。
また南には志贺・唐崎⑨・石山寺⑩の社寺が见えた。この石山寺の本尊は远く唐にま
でその霊験を知られた観世音菩萨であり、その昔紫式部もこの寺に参诣して所愿をかな
え、その礼として源氏物语の巻を纳めたと伝えられる仏である。このほか东には伊吹の
高山や荒れ果てて残る不破の関も见え、砦のさえぎるもの一つとてない景観と顽丈なる
构えは笔舌に尽くしがたいものであった。
この虎御前山から後方の横山までは三里の距离があり、やや远かった。このため途中
の八相山と宫部郷⑪にも连络用の砦が筑かれた。宫部郷には宫部善祥坊継润が入り、八
相山は城番の人数が守った。また虎御前山から宫部郷までは悪路が続いて通行が不便だ
ったため、信长公は道路の改修を命じて道幅を三间半にまで広げさせ、敌地侧の道路脇
には五十町の距离にわたり高さ一丈の筑地を筑かせ、川水を堰入れさせた。
これほどに雄大な阵地构筑は前代未闻であり、この阵地群の前にはもはや前方に展开
する朝仓势もさしたる胁威ではなかった。そのため信长公は横山へ军势を纳めようと考
え⑫、その前に朝仓势へ使者を向かわせた。使者は堀久太郎秀政であった。堀は朝仓の
阵に着くと、「朝仓殿には折角の御出马である。ついては日时を定め、一戦を致さん」
という信长公の言叶を伝えたが、朝仓势からの返答はなかった。9月16日、信长公は虎
御前山の砦に羽柴秀吉⑬を残し、嫡男奇妙殿とともに横山へ马を纳めた。
すると霜月3日浅井・朝仓势が军势を缲り出し、虎御前山から宫部に到る道に筑かれ
た筑地を破壊しようとしてきた。先锋は浅井七郎であった。この动きに対し、秀吉はす
ぐさま応戦の人数を出して一戦に及んだ。戦は梶原胜兵卫・毛屋猪介・富田弥六・中野
又兵卫・滝川彦右卫门らの先悬け衆が奋闘して敌を追い崩し、各々功名を挙げた。この
うち滝川彦右卫门は元々信长公の近习をつとめていた者であったが、今回の江北出兵で
背に大指物を差して出阵しながら大した武功も挙げられず、信长公の勘気をこうむって
虎御前山に居残っていた。そのためこの戦では発奋して目のさめるような働きをし、そ
の功によりふたたび御前に召し出された。滝川は大いに面目を施した。
( ①现滋贺県木之本町の浄信寺 ②现浅井町草野川渓谷 ③现高岛町打下 ④⑤⑥それ
ぞれ琵琶湖北の湖岸 ⑦琵琶湖北辺の岛 ⑧浅井町・湖北町间の山、原文「大づく」
⑨现大津市下坂本町の唐崎神社 ⑩现大津市石山寺辺町 ⑪现虎姫町宫部 ⑫武田信玄
の动きに备えるため。このときの信长をとりまく情势は、ここに书かれるほど余裕のあ
るものではなかった。 ⑬秀吉について、原文ではここから羽柴姓で称されている。)
4、三方ヶ原 (身方が原合戦の事)
この年冬、远州の大地が揺らいだ。
11月下旬、远州表より信长公のもとへ甲斐の武田信玄が远州二俣城①を囲んだとの报
がもたらされた。これを受けた信长公は、ただちに家老衆の佐久间信盛・平手泛秀・水
野信元らを大将とする援军を远州へ向け进発させた。援军はいそぎ浜松に参阵したが、
その时にはすでに二俣の城は陥落したあとであり、武田势は早くも次なる要冲堀江城②
の攻略にかかろうとしていた。武田势が浜松にせまったことを知った徳川家康は、城を
出て野外で决戦する道を选んだ。
かくして12月22日、徳川势は浜松城から打って出、三方ヶ原③で武田势と合戦に及ん
だ。佐久间・平手らの援军もこれに加わり、织田・徳川と武田の両势はたがいに総力を
あげての血戦に突入した。
绪戦、武田势は水役の者と名付ける三百人ほどの兵を前方に立て、かれらに投石を行
わせた。そして彼らの投げる石砾に织田・徳川势がひるんだところへ、地を震わせるば
かりの戦鼓の音とともに武田本军が一斉に突撃をしかけてきた。この突撃の前に织田・
徳川势はひとたまりもなく崩れたち、平手泛秀とその郎党および家康御内衆の成瀬藤蔵
らのつわものたちが一瞬のうちに、川辺の苇を薙ぐようにことごとく首を刈り取られた
。
三方ヶ原の原野は、织田・徳川势の死骸で埋まった。その中には、信长公の幼时の顷
より小姓として近侍していた长谷川桥介・佐脇藤八・山口飞騨・加藤弥三郎らの姿もあ
った。この四人はこれより以前に信长公の勘気を蒙って织田家を放逐されており、家康
を頼って浜松に居住していた。そこへ今回の戦が起こったため、四人はここを名誉挽回
の机会と心得、そろって参戦して全员が一番合戦で见事な讨死を遂げたのであった。
悲剧はそれだけにとどまらなかった。この四人と亲しかった者に尾张清洲の町人で具
足屋を営む玉越三十郎という二十三、四歳の若者がおり、この时も四人を见舞って远州
浜松に下ってきていた。
そこへ武田势堀江を囲むの报が伝わってきた。四人は玉越に向かい、「敌势は、さだ
めしこの浜松表へも相働くであろう。その时はわれらも徳川殿とともに一戦に及ぶ覚悟
である。されば三十郎、汝は早々に罢り退くべし」と事をわけて説得した。
しかし玉越はこれを拒んだ。「ここまで参りながら难をおそれて退散したとあっては
、たとえ清洲に帰り着いても今後人がましく口をきくこともできなくなりましょう。皆
様讨死の御覚悟ならば、三十郎も同心いたしまする」と申し切り、帰ろうとはしなかっ
た。そうして四人衆とともに出戦して切りまわり、枕を并べて讨死したのであった。
このような惨状の中にあって徳川家康は乱军の中へ押し入り、并居る敌を切り立てて
なんとか退路を筑いた。そして戦场を左に折れて三方ヶ原わきの一骑乗りの细道を退却
していった。しかし退却の途中にも敌は待ちかまえており、家康が现れると道の先に立
って退路をふさいできた。これに対し家康は马上より弓をかまえると、前方をさえぎる
敌を次々と射倒してその场を駆け抜けた。家康の弓の手柄は今に始まったことではなか
った。
家康はからくも浜松にたどり着き、その後は城を坚固に支えた。大胜を得た信玄は、
军势を纳めた。
( ①现静冈県天竜市二俣町 ②现浜松市馆山寺町 ③现浜松市三方原町)
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