作者Eiichirou (水曜日的情事)
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标题[史料] 信长公记 卷四 元亀二年(1571年)
时间Wed Mar 19 09:06:02 2008
资料来源
http://home.att.ne.jp/sky/kakiti/shisaku.html
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信长公记
巻四 元亀二年(1571年) 江北の戦云~第一次长岛征伐~叡山焼き讨ち
元亀二年
この年の正月、信长公は浓州岐阜にあって诸将の参贺を受けた。
1、佐和山降る (佐和山城渡し进上の事)
2月24日、佐和山城に笼っていた矶野员昌が降伏し、城を明け渡して高岛郡へ退去し
た。後には城代として丹羽长秀が入れ置かれた。
2、藤吉郎奋戦 (箕浦合戦の事)
5月6日、浅井势が动いた。この日浅井长政は军势を率いて姉川まで进出し、木下藤
吉郎固める横山城へ向かって阵を立て备えた。そして先手足軽大将の浅井七郎に命じ、
兵五千をもって箕浦①の堀秀村居城近くまで寄せさせ、在所在所に放火してまわらせた
。
この様を见た木下藤吉郎は、横山城に十分な兵を残した上でみずから百骑余りを引き
连れて密かに城を出た。そして敌方に见つからぬよう山里を密行して箕浦へ入り、堀秀
村・樋口直房と合流した。しかしそれでも総势はわずかに五、六百に过ぎず、その人数
で敌势五千②と対峙しなければならなかった。
木下势は寡兵の足軽をもって敌势に立ち向かい、下长沢③で一戦に及んだ。この戦で
樋口直房配下の侍多罗尾相模守が讨死したが、そのことを知った多罗尾家来の土川平左
卫门という者は主人の後を追おうと敌中に突入し、见事讨死を遂げた。比类なき働きで
あった。
このように苦戦した木下势であったが、敌が一揆の集まりだったこともあり、なんと
か突き崩して数十人を讨ち取ることに成功した。さらに木下势は下坂④のさいかち浜で
も戦い、ここでも胜って敌を八幡下坂⑤まで追い崩した。味方の败军のさまを见た浅井
长政は、得るところなく小谷へ军势を返した。
( ①现滋贺県近江町箕浦 ②原文には五千ばかりの一揆と记されている。おそらくは夸
张 ③同近江町内 ④现长浜市下坂浜町 ⑤现长浜市神前町八幡神社)
3、长岛征伐 (大田口合戦の事)
5月12日、织田势は一向一揆讨伐のため伊势长岛へ攻め寄せた。信长公は津岛①に入
り、ここを本営とした。
织田势は三方より攻め入った。中筋口②からは佐久间信盛・浅井新八・山田三左卫门
・长谷川丹波・和田新介・中嶋豊後らが进み、川西の多芸山から大田口③へは柴田胜家
・市桥长利・氏家ト全・伊贺平左卫门・稲叶一鉄・塚本小大膳・不破光治・丸毛长照・
饭沼勘平が进んだ。しかし戦况は进展せず、16日になって大田口の织田势は在所在所に
放火したうえで军を後方に退けようとした。
そこへ一揆势がつけいった。周辺の山々に分け入った一揆势は、山と大河に挟まれた
狭い一本道を退いてゆく织田势へ向かい、弓と鉄炮を立てて一斉に袭いかかってきたの
である。
织田势は、壊乱した。殿军をつとめていた柴田胜家は押し寄せた敌势としばらく激戦
を展开したが、周囲の山という山から次々と群がり寄せる一揆势の前にやがて崩れ、薄
手を负って退却した。胜家のあとには氏家ト全が残り、敌势をなんとか支えようとした
が、逆に一揆势に囲まれてト全以下家臣数辈ことごとく讨死してしまった。まったくの
惨败であった。
8月、败戦から回复した信长公は江北へ出马し、18日横山に阵を取った。なおこの在
阵中の20日夜横山に大风が吹き、城の塀橹を吹き落としてしまった。
小谷城とその西に位置する要所山本山④との间は五十町ほどの距离があり、その中ほ
どに中岛という郷があった。26日信长公はここに一夜阵を据え、そこから与语⑤・木本
⑥方面に足軽を放って各所を放火してまわらせた。そして27日になって横山へ军势を返
した。
その翌日の28日、信长公は佐和山に出て丹羽长秀の在所に宿泊した。そのころ织田势
の先手は、一向一揆が立てこもる小川村・志村の郷⑦を囲んで近在を焼き払っていた。
( ①现爱知県津岛市 ②现三重県长岛町の大鸟居辺り ③现岐阜県南浓町太田辺り ④
现滋贺県湖北町と高月町の境に位置する山 ⑤⑥それぞれ现余呉村・木之本町 ⑦とも
に现能登川町内)
4、江南镇定 (しむら攻め干さるるの事)
9月1日、信长公は佐久间信盛・中川重政・柴田胜家・丹羽长秀の四名に命じて志村
城を攻めさせた。四将は城を囲んで四方より取り寄せ、城壁を乗り破って乱入し、首数
六百七十余を挙げて城を落とした。この猛攻のさまを目にした隣郷の小川城主小川孙一
郎は戦栗し、人质を差し出して降伏を申し入れてきた。信长公はこれを受诺した。
そののち信长公は常楽寺①に滞留し、9月3日军势を一向一揆の立てこもる金が森城
②の攻略に向かわせた。金が森を囲んだ织田势は、城方の作物をすべて刈り取ったうえ
四方に鹿垣をめぐらせて诸口を闭ざし、城を完全に取り込めてしまった。城方はたまら
ず人质を供出して降伏した。信长公はこれをも受け入れた。
金が森攻略後、信长公は旗下の军势に南方表へ进撃する旨の军令を発した。そうして
大兵を率いて西上し、11日瀬田の山冈玉林斎景犹馆に着阵した。
しかし、攻撃先は南方ではなかった。
( ①现滋贺県安土町内(前出) ②现守山町金森)
5、六天魔王 (叡山御退治の事)
元亀2年9月12日。
この日、织田势は近江国比叡山の山麓にひしめいていた。
先年织田势が野田・福岛を攻囲して落城寸前にまで追い诘めたとき、朝仓・浅井势が
近江を南下して坂本口へ袭いかかった。この军事行动に対し、信长公は都へ敌の乱入を
许しては一大事と考え、野田・福岛の阵を払って东へ急行した。そして逢坂を越えて越
北衆に悬け向かい、これを局笠山に追い上げて干し杀しにしようとした。このとき信长
公は自阵に山门の衆徒を召し出し、织田势への协力を求め、味方した际には分国中の山
门领を元のごとく还付する旨を金打と朱印状をもってかたく誓约した。さらに出家の道
理により一方への贔屓がなしがたい场合にはせめて中立を保つよう、事をわけて説得し
た。その上でもしこれに违背して朝仓・浅井に肩入れした场合には、根本中堂・山王二
十一社ことごとく焼き払うと宣告していた。
それから一年が経ち、その时が到来したのである。この顷、山门山下の僧衆は王城镇
守の重责を负いながら修行を怠り、天下の嘲弄を耻じず、天道を恐れず、淫乱と肉食を
ほしいままにしていた。あまつさえ先年は金银に目をくらませて浅井・朝仓に味方し、
暴慢なるはたらきさえした。
信长公は彼らに対するに、まず容赦をくわえて见逃した。しかし彼らは改めなかった
。そこで信长公は、このたび残念ながらも圣域に马を打ち入れることを决めたのである
。
信长公は心中にこもる彼らへの愤りを散じようと、军势を山にのぼらせて根本中堂・
山王二十一社をはじめ霊仏・霊社・経巻のことごとく、一宇も残すところなく焼き払わ
せた。これにより叡山は一日にして灰烬の地と化してしまった。一方山下では老若男女
が徒歩はだしで逃げまどい、取る物も取り敢えず八王寺山にのぼり、日吉大社奥宫の社
内に逃げこんだ。しかし织田势はこれを逃さず、四方より哄の声をあげながら社内にな
だれ込んでこれを杀戮した。
镇护国家の大道场は、叫唤のるつぼと化した。织田势は僧俗・児童・智者・上人の别
を问わずことごとく首をはね、信长公の御前に差し出した。また山上では名僧・贵僧の
呼び声高い高僧たちとともに美女・小童のたぐいが数をも知れず捕らえられ、御前に引
き出されてきた。かれらは口々に「悪僧を诛伐なさるにおいては是非もなし。しかしわ
れらは助け候え」と哀愿したが、信长公は闻き入れず、彼らはすべて首を打ち落とされ
た。まことに目も当てられぬありさまであった。
焼き讨ちは完遂され、信长公は胸中のしこりをとりはらった。信长公の怒りに触れた
比叡山の山麓には数千の屍が散らばり、この世のものとも思えぬ情景が広がっていた。
哀れなことであった①。
焼き讨ちののち志贺郡は明智光秀に与えられ、坂本に城が筑かれた。
9月20日、信长公は岐阜に帰阵した。そして翌21日、河尻秀隆と丹羽长秀に命じて佐
和山城に高宫右京亮の一党をおびき出し、これを诛杀させた。高宫党は危険を察知して
切って出たが、别段の支障なく成败されてしまった。高宫は先年の野田・福岛阵のおり
、大坂方に内通して一揆を扇动し、自身も天満の森の阵地を出て大坂に駆け入っていた
。そのため今回诛戮の忧き目にあったのである。
( ①焼き讨ちの事実は当时の公家の日记等にも大きく记されているが、近年になって山
上の建物は焼き讨ちされなかったのではないかとする见解も出されている。)
6、天下安楽 (御修理造毕の事)
去る永禄12年、禁中の荒廃ぶりを目にした信长公は、日乗上人・村井贞胜の両名を奉
行に任じて内里の大修复を开始させた。それから3年が経过したこの年ついに修复が完
了し、紫宸殿・清凉殿・内侍所・昭阳舎をはじめ各所各局が余すところなく作りあげら
れた。また信长公は今後末代まで禁里の台所を滞らせぬようにと考えをめぐらし、洛外
各所から供出された米を洛中の市民に贷し付け、その利润の何割かを朝廷の収入とする
决定を下した。その上信长公は没落贵族の家の复兴と领地の复地などにも力を添えてや
り、これらの政策は天下万民の喝采を浴びた。织田家の栄光と威风ははかるべくもなか
った。
また织田分国中において、関銭诸役はすべて免除された。ゆえに往还する旅人の表情
はいずれも生気に満ち満ちており、ひとびとに信长公の慈悲の深大さを感じさせた。こ
れも「道ヲ学ビ身ヲ立ツルモ名ヲ後代ニ挙ゲン」とする信长公の意志の表れであったと
いえるだろう。
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