作者Eiichirou (水曜日的情事)
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标题[史料] 信长公记 卷二 永禄十二年(1569年)
时间Tue Mar 18 12:02:09 2008
资料来源
http://home.att.ne.jp/sky/kakiti/shisaku.html
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信长公记
巻二 永禄十二年(1569年) 三好势の反攻~二条御所造営~伊势平定
永禄十二年
1、三好势返す (六条合戦の事)
永禄12(1569)年正月4日、三好三人衆は畿内を流浪していた斎藤右兵卫太辅龙兴・长
井道利主従ら南方の诸浪人を纠合し、薬师寺九郎左卫门を先悬けに公方様御座所の六条
本圀寺に攻め寄せた。门前はまたたく间に焼き払われて寺は重囲のただ中に落ち、敌が
寺内へ突入してくるのも间近と思われた。
このとき寺内にあって公方様を警护していたのは、细川典厩藤贤・织田左近・野村越
中・赤座七郎右卫门・津田左马丞・坂井与右卫门・明智十兵卫光秀・森弥五八・山県源
内・宇野弥七らであった。このうち若狭衆の山県・宇野は隠れなき勇士と名高く、そろ
って敌将薬师寺の旗本势へ突入し、并居る敌势を切り崩して激闘した。しかし次々と押
し寄せる敌兵の前にやがて力尽き、両名とも枪下にて讨死した。
他の御所势も奋戦し、敌が突入してくればその都度これを押し返し、なかには敌势三
十骑を一度に射倒して敌が算を乱す场面も见られた。三好势は攻めあぐねた。
そのような中、三好左京大夫义継①・细川兵部大辅藤孝・池田筑後守胜正・池田清贫
・伊丹衆・荒木衆らの援军がようやく到着し、桂川河畔で三好势にぶつかった。戦は黒
烟うずまく激戦となったが、来援军は高安権头ら敌方の大将を次々と讨ち取って胜利を
得、三好势の撃退に成功した。
戦の後、来援军は岐阜の信长公のもとへ急使を送って変事出来を知らせた。
( ①三好义継は三好氏の正嫡だが、この时は三好三人衆と対立して信长へ降っていた。)
2、飞将军 (御後巻信长御入洛の事)
三好势来袭を知らせる急使は、6日に岐阜へ到着した。
美浓から京に向かう道筋は、このとき折り悪く大雪となっていた。しかし信长公は时
を待たず今すぐに上洛すると触れを出し、大雪の中をまっさきに飞び出して悍马にまた
がった。马借の者たちはあわてふためき、一刻も早く荷造りを终えようとして荷物を夺
い合った。信长公は仕方なしに马を下り、荷物を一々検分してやり、「いずれも同じ重
さである。早う致せ」と促した。奉行の者が依怙贔屓でもしているかと虑ってのことで
あった。
雪中での行军は困难をきわめ、下々の者の中には冻死するものもあった。しかし信长
公は通常三日の行路を二日で踏破し、马上十数骑余りで京都六条へ駆け入った。
信长公は味方が坚固に守って御所を维持したことをよろこび、手柄をたてた池田清贫
らに多大な恩赏を与えた。诸将は天下に面目をほどこした。
3、世を创る (公方御构御普请の事)
信长公は今度の事件から六条御所の防御に不安を感じ、新しい御所の造営を命じた。
かくて尾・浓・江・势・三州および五畿内・若狭・丹後・丹波・播磨の十四か国の衆が
京洛の地に集まり、二条の斯波邸迹に新御所を建设する大工事が始まった。
工事は2月27日を锹始めとして四方に石垣を高く筑き、その上に大工奉行村井贞胜・
岛田秀顺によって洛中洛外から呼び寄せられた锻冶・番匠が诸国より集まった材木を积
み上げていった。作业は奉行の监督のもと遅滞なく进み、ほどなくして新御所が完成し
た①。御殿の内装には様式通りに金银をちりばめ、庭には泉水・遣水・筑山が构えられ
た。
信长公はまた细川屋敷にあった藤戸石とよばれる大石をこの庭に移すと仰せ出された
。そうして石のもとへゆき、みずから指挥してかの名石を绫锦で包ませ、花で饰り立て
、笛と大鼓・小鼓で囃し立てながら大纲でもって引かせた。信长公の御下知により、石
はすぐさま御所の庭へ引き上げられた。他にも东山の慈照寺に置かれていた九山八海と
いう名石など庭には洛中洛外の名石・名木が集められ、眺望のかぎりがつくされた。马
场にも桜が植えられて「桜の马场」とよばれるなど、御所内は余すところなく整备され
た。御所の周囲には诸侯の屋敷が甍をつらね、将军座所の威容が整えられた。
完成ののち、信长公は公方様へ祝いの太刀と马を献上した。公方様は大いに喜び、信
长公を御前へ召し寄せてみずから盃を与え、御剣その他を下赐した。光栄のほどはいう
までもなかった。このあと信长公は在洛していた诸国の将兵をねぎらい、帰国を许した
。
( ①工事は2ヶ月ほどで终了し、4月中旬には义昭が御所に入った。信长が见物の女性
にからんだ足軽を一刀のもとに切り舍てたという话は、この时のこと。)
4、禁里修复 (御修理の事)
当时、禁中は荒廃してその体を失っていた。信长公はこれにも大修复を施そうと考え
、日乗上人と村井贞胜に奉行を申し付けた。
5、名物収集 (名物召置かるるの事)
すでに信长公は金银・米銭に不足はなく、この上は唐物の茶入れなど天下の名物を集
めようとし、所蔵主たちに献上を命じてまわった。かくて大文字屋所持の初花肩冲、佑
乗坊の富士茄子の茶入れ、池上如庆のかぶらなしの花入れといった名物が公のもとへ差
し出された。使いには松井友闲・丹羽长秀が立ち、所蔵主には金银米谷が代偿として与
えられた。
こののち信长公は天下に掟书を布达し、5月11日岐阜に帰还した。
6、伊势路 (阿坂の城退散の事)
信长公は势州表へ兵を出し①、8月20日桑名に着阵した。翌日は鹰野をして过ごし、
22日になって白子②の観音寺まで进んだ。23日には木造③まで出たが、その後降雨が続
いたためこの地で数日间の滞阵を强いられた。
26日になって、织田势は木下藤吉郎秀吉を先悬けとして阿坂城④に攻め寄せた。秀吉
はみずから塀际まで诘め寄せ、薄手を负って退いたが、その後も猛攻は続けられて城は
落ちた。城衆は降伏して退城し、城には滝川左近将监一益の人数が入った。
( ①伊势木造城主木造具政の内応を契机として出兵した。 ②现三重県铃鹿市白子町
③现久居町内 ④现松阪市内)
7、国司降る (大河内国司退城の事)
こののち织田势は周辺の小城には手を付けずにまっすぐ伊势の深奥部へ进み、27日伊
势国司北畠具教・具房亲子の笼る大河内城①へ押し寄せた。信长公は周辺の地形を侦察
したのち城东の山に阵を取り、夜半に町を焼き払わせ、28日朝になって攻囲の阵を固め
させた。阵取りは以下のように命じられた。
城南の山 织田上野介信包殿・滝川一益・稲叶一鉄・池田恒兴・和田新介・後藤喜三郎
・蒲生右兵卫大辅贤秀・永原筑前・永田刑部少辅・青地骏河守茂纲・山冈美作守景隆・
山冈玉林景犹・丹羽长秀
西 木下秀吉・氏家ト全・安藤守就・饭沼勘平・佐久间信盛・市桥九郎右卫门长利・塚
本小大膳
北 斎藤新五・坂井政尚・蜂屋頼隆・簗田弥次右卫门・中条将监・矶野丹波守员昌・中
条又兵卫
东 柴田胜家・森可成・山田三左卫门・长谷川与次・佐々成政・梶原平次郎・不破光治
・丸毛兵库头长照・丸毛三郎兵卫兼利・丹羽源六・不破彦三
织田势は城をぐるりと囲み、四方に鹿垣をめぐらして诸口の通路を闭ざし、菅谷九右
卫门长頼・塙九郎左卫门直政・前田利家・福富秀胜・中川八郎右卫门・木下雅楽介・松
冈九郎二郎・生驹平左卫门・河尻秀隆・汤浅甚介らが栅内を巡回した。また信长公の御
座所の警固は马廻・小姓衆及び弓衆・鉄炮衆に命じられた。
9月8日になり、信长公は稲叶一鉄・池田恒兴・丹羽长秀の三将に西搦手口から敌に夜
讨ちを仕挂けるよう指令した。命を受けた三将は、夜半に三手に分かれて攻撃を开始し
た。しかし军势を出したまではよかったが、折柄降り出した雨によって鉄炮が役に立た
なくなってしまった。このため寄せ手は苦戦におちいり、池田恒兴の攻口で马廻の朝日
孙八郎・波多野弥三が戦死したのをはじめ丹羽势でも近松豊前・神戸伯耆・神戸市介ら
が戦死し、织田势は一夜のうちに屈强の侍二十余人を失ってしまった。
翌9日信长公は方针を変え、滝川一益に命じて多芸谷②の国司御殿その他の建物をこ
とごとく焼き払わせた上、田畑の作物を薙いで大河内近辺をまったくの忘国としてしま
い、城中を干し杀しにしようとした。
この持久作戦は効を奏した。城を囲んでしばらく在阵しているうちに城中から使者が
あり、饿死者が出はじめた城中の穷状を述べ、信长公へ恭顺の意を申し述べてきたので
ある。この申し出に対し信长公は、次男御茶筅殿へ北畠家の家督を譲ることを条件に开
城を受け入れた。
10月4日、北畠亲子は大河内の城を滝川一益・津田扫部に明け渡し、笠木③・坂内④
へ退去した。この间信长公は诸方へ城割の奉行をつかわし、田丸城⑤をはじめとして伊
势国内の诸城を破却せしめた。
( ①现松阪市大河内町 ②现美杉村 ③④ともに现松阪市内 ⑤现玉城町)
8、関銭の廃止 (関役所御免除の事)
伊势平定後、信长公は同国内において往还の旅人を悩ませていた诸関を廃止し、関銭
の徴収を固く禁じる布令を発した。
9、伊势平定 (伊势御参宫の事)
10月5日信长公は山田①に入って堤源介邸に宿泊し、翌6日伊势内宫・外宫・朝熊山
へ参诣した。そして翌日帰阵の途につき、8日に上野②へ出た。信长公はここで军势を
解き、御茶筅殿を大河内城主として介添えに津田扫部を置き、安浓津③・渋见④・木造
の三城には滝川一益の人数を入れ、上野には织田信包殿を封じた。そうしてみずからは
马廻のみをつれて京へ向かうことにし、诸国の军势にも帰国を许した。
京へは千草越え⑤の道をとり、9日に千草へ入ったが、その日に雪が降り出して山中
は大雪となってしまった。それでも翌10日には江州へ出て市原に宿泊し、11日京へ入っ
た。京では公方様へ势州表平定の报告をし、そののち数日滞在して天下の政情を闻き、
10月17日になって浓州岐阜へ帰阵した。
( ①现伊势市 ②现三重県河芸町 ③④现津市 ⑤现三重県菰野町から铃鹿山脉を越え
て近江へ出る道)
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