作者Eiichirou (水曜日的情事)
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标题[史料] 信长公记 卷一 永禄十一年(1568年)
时间Tue Mar 18 11:51:30 2008
资料来源
http://home.att.ne.jp/sky/kakiti/shisaku.html
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信长公记
巻一 永禄十一年(1568年) 义昭奉戴~上洛・畿内平定戦~岐阜帰还
太田和泉守これを缀る
永禄十一年戊辰以来织田弾正忠信长公の御在世、且これを记す。
1、公方殿生害 (公方様御生害の事)
永禄8(1565)年のことである。
先公方光源院义辉殿が生害され、御舎弟の鹿苑院殿をはじめ幕府の歴々衆が一所に讨
死した。
当时天下の権を握っていた三好氏は、义辉殿が内々に自分达の排斥を望んでいること
を十分に察していた。そこで彼らは谈合し、义辉殿の生害を企てたのである。
5月19日早朝、三好势は清水参诣と称して洛中へ人数を寄せ、一挙に御所へ突入した
。御所の人々はこの思いもよらぬ事态に惊愕したが、もはや手遅れであった。三好势の
重囲の中、彼らは数度にわたり切って出て寄せ手を切り崩し、数多に伤を负わせた。义
辉殿もみずから伝来の宝刀をとって奋戦したが、多势の前にやがて力尽き、御殿に火を
放って自害に及んだ。
三好势はさらに义辉殿三弟の鹿苑院殿にも讨手をさしむけ、これを杀害した。杀害後
鹿苑院殿の家来衆の多くが逃げ散る中、かねて鹿苑院殿に目をかけられていた美浓屋小
四郎という若者は隙を见て讨手の大将平田和泉を切り杀し、みずからもその场で追い腹
を切って死んだ。比类なき高名であった。
まさに乱世であった。天下万民の愁叹は尽きなかったという。
2、流亡将军 (一乗院殿佐々木承祯朝仓御凭叶わざる事 )
义辉殿の次弟で奈良兴福寺一乗院门迹となっていた足利义昭殿は、寺を相続するかぎ
り危害は加えないとの三好势の言叶を信じ、义辉殿生害後もしばらく在寺していた。し
かし次第に身辺に危机を感じ、永禄8(1565)年12月ひそかに南都を脱出した。そして和
田伊贺守惟政に守られて伊贺・甲贺路を下り、江州矢嶋①へ出て六角左京大夫承祯义贤
を頼った。六角家へは様々に尽力を要请したが、満足のいく回答は得られず、かえって
近江を追い出される破目になってしまった。「頼む木本に雨漏り」といった事态に失望
した义昭殿は、さらに越前へ下向した②。
越前朝仓家は元来国主の地位になかったが、现当主朝仓义景の父孝景の代に将军家か
ら御相伴衆に准ずる地位を与えられて一国の支配を认められていた。しかしながら朝仓
家ではその恩を忘れ、义昭殿の帰洛にもなかなか力を贷そうとはしなかった。
( ①现滋贺県守山町矢岛。法名を覚庆といった义昭は还俗して义秋と名乗った。
②若狭に滞在したのち、永禄10年越前に入る。翌年元服し、名を义昭と改めた。)
3、大鱼入る (信长御凭み御请の事)
困じはてた义昭殿は、ついに信长公の元へ使者を遣わし、「この上は、ひとえに上総
介信长を凭みたい」と书き送った。
信长公は美浓でこの御教书にふれた。そして、
─信长矮弱ノ士タリトイヘドモ、天下ノ忠功ヲ致サン。と欲し、一命を軽んじてこの要
请を受けることを决心したのであった。
そうして永禄11(1568)年7月25日、义昭殿は美浓より迎えの使者に立った和田惟政・
不破河内守光治・村井贞胜・岛田秀顺らの歴々に伴われて越前を出立し、浓州西庄の立
正寺①に入った。座所の末席には銭や太刀・铠・武具・马などの进物が山のごとく积ま
れ、御家来衆もそれぞれ盛大な歓待を受けた。
义昭殿を拥した信长公は上洛の准备を急ぎ、8月7日道中の诸势力との交渉のため江
州佐和山へ赴いた。そうして义昭殿の上使にみずからの使者を添えて六角家へ向かわせ
、上洛军への协力と人质の供出を要求した。交渉は七日间にわたり、信长公は対価とし
て所司代の地位を约束したが、结局要求を容れさせることはできなかった。交渉の决裂
により、信长公は道中の近江での戦闘を覚悟せねばならなくなった。
( ①现岐阜市西荘内の立政寺)
4、上洛 (信长入洛十余日の内に五畿内隣国仰付けられ、征夷将军に备へらるるの事)
永禄11(1568)年9月7日、信长公は义昭殿の元へ参上し、出阵の挨拶を述べた。
「江州をひと呑みに讨ち果たし、お迎え申し上げる」
そうして信长公は浓尾势三①四州の军兵を率い、同日岐阜を出立した。
军势は平尾村②で夜を明かして翌8日江州高宫③まで进み、この地に二日间滞在して
人马の息を休めた。11日になって休息を终えた军势は爱知川近辺まで进军して野阵を张
った。ここから马を駆けまわして付近の敌状を探索した信长公は、沿道に散在する敌城
には目をくれずに进军し、六角承祯亲子が立てこもる観音寺城④に近接する箕作城⑤へ
向かった。翌12日、信长公の命を受けた佐久间信盛・木下藤吉郎秀吉・丹羽长秀・浅井
新八らによって箕作城の攻撃が开始された。攻撃は申刻(午後3时过ぎ)より始まり、夜
半に城は落ちた。
信长公の所领となってまもない美浓の将士は、この戦ではさだめし先手として追い使
われることになろうと覚悟していた。しかしいざ戦が始まってみると、信长公は美浓衆
などに构わず马廻りだけで攻撃を开始してしまった。この思いもよらない戦の仕方に、
美浓三人衆などはただ惊くばかりであったという。
落城後、信长公は箕作山に阵を据え、翌日にも六角氏の本拠観音寺城を攻める势いを
示した。ところが箕作の陥落をみた承祯亲子は抵抗は不可能とみて城を舍てて逃亡して
しまった。翌日织田势はやすやすと観音寺城へ入城を果たした。観音寺落城によって付
近の六角残党が轩并みに降伏してきたため、信长公は人质を差し出させた上で彼らの所
领を安堵してやり、一国を支配下に収めた。盟约通り江南を平定した信长公は、14日不
破光治を迎えの使者に立てて美浓立正寺へ向かわせた。
21日になって信长公は马を进め、柏原⑥の上菩萨院に着阵し、翌日には桑実寺へ入っ
た。23日は瀬田⑦まで进んだがここで船の手配がつかずに一日を费し、翌24日⑧湖を渡
って三井寺极楽院に着到した。军势は大津の松本・马场⑨に宿阵し、义昭殿は渡江して
同三井寺光浄院に宿泊した。そして9月26日信长公はついに入洛を果たした。同日义昭
殿も入京し、清水に宿阵した。
しかし信长公は入洛後息もつかずに东福寺へ阵を移し、28日柴田胜家・蜂屋頼隆・森
可成・坂井右近政尚の四将を先头に立てて桂川を越え、岩成主税头友通の守る胜龙寺城
⑩を攻めた。敌も足軽を出して応戦してきたが、四将は连携して敌にかかり五十余の首
を斩获した。首は东福寺内に并べられて信长公の実検を受けた。翌日城近くまで军を寄
せられた岩成友通は力尽きて降伏した。
30日には山崎⑪に着阵し、先阵を天神山に置いた。芥川城⑫に立てこもっていた细川
六郎昭元殿⑬・三好日向守长逸は织田势の圧迫に耐えかね、夜になって退却した。あわ
せて筱原右京亮长房支配下の越水⑭・滝山⑮の城兵も潮の引くように退いていったため
、信长公は义昭殿に供奉して芥川城へ入城し、ここを本営とした。
月は変わって10月2日、信长公は池田胜正の拠る池田城⑯に攻め寄せ、阵を城北の山
に构えて敌を远望した。
攻撃が始まり、寄せ手の水野忠政家中の武辺者・梶川平左卫门と信长公の马廻でこちら
も武勇の闻こえ高い鱼住隼人は先を争って外构えに突入した。しかしたがいに押しつ引
きつ闘ううちに梶川は腰骨を突かれて讨死してしまい、残った鱼住も负伤して退却した
。戦は激しい攻城戦となり、双方多数の戦死者を出した。业を煮やした信长公は、城下
に火をかけて町を焼き払ってしまった。
それでもこの戦に参加した诸士はここを末代の高名と心得て意気高く、まさに三略に
いう「戦フコト风ノ発スルガ如ク、攻ルコト河ノ决ルガ如シ」といった势いであった。
この势いの前に池田胜正もまもなくして人质を出して降伏したため、信长公は军势をひ
きつれ芥川の本営に凯旋した。ここに五畿内およびその隣国が信长公の支配するところ
となったのである。
芥川滞在中、信长公の元へは参贺の使者が内外の珍物を携えて続々と来访し、门前に
市をなすがごとき盛况となった。松永弾正久秀は本朝无双といわれる九十九茄子の茶入
れを进上し、今井宗久も名物松嶋茶壷と绍鸥茄子の茶入れを献じた。中には九郎判官义
経が一の谷で着用したという铠を进上するものもあった。
10月14日、义昭殿は芥川から帰洛して六条本圀寺に入った。洛中の人々は一同に喜悦
安堵した。直後に信长公も供廻の衆をひきつれて帰洛し、清水に落ち着いた。信长公は
戦胜に意気腾る诸势の中から不届きを働く者が出ないように洛中洛外の警固を厳重にす
るよう申し渡したため、下々の辈による乱妨沙汰は起こらなかった。
各地に城塞を构えて反抗していた敌をわずか十余日の内にことごとく退散させ、天下
をみずからの御存分次第とした信长公は、细川昭元殿の邸を义昭殿の御殿に定めて祝い
の太刀と马を献上した。义昭殿は喜悦し、信长公を召し出して三献を与え、手ずから盃
と刀を下赐した。
18日、义昭殿は朝廷より正式に宣下を受けて征夷大将军に就任し、22日参内を果たし
た。ここに至るまでの信长公の御功绩は後世末代まで称えられるべきものであった。
( ①信长所领の兵に家康の援军も加え、総势四万~六万と伝えられる。 ②现岐阜県垂
井町内 ③现滋贺県彦根市内 ④现安土町内 ⑤现八日市市内 ⑥现山东町内 ⑦现大
津市瀬田町 ⑧原文では26日となっている。以下、原文の记述が実际の日付と相违する
ため修正した。 ⑨现大津市内 ⑩现京都府向日市内 ⑪现大山崎町 ⑫现大阪府高槻
市芥川 ⑬後に信长の妹婿となったためか、敬称がつけられている。 ⑭现兵库県西宫
市内 ⑮现神戸市滝山区内 ⑯现大阪府池田市)
5、深谋量り难し (観世大夫・金春大夫御能仕るの事)
将军职补任後、义昭殿は座所となった细川邸に観世大夫を招いて観能の会を催し、こ
のたびの戦で粉骨の働きをした面々を招待した。
番组は吉例の弓八幡を脇能として十三番が组まれていた。しかし演目を见た信长公は
、
「いまは隣国平定をいそぐ时である。これで弓矢が纳まりしなどとは、考えも及ばぬ」
といって、五番に省略してしまった。
この前後に义昭殿は信长公のもとへ再三にわたって使者を遣わし、副将军・管领への
就任を要请していた。しかしながら信长公は辞退して受けようとはしなかった。この辞
退を「まことに奥床しき振舞い」ととった都鄙の人士は、一様に感心した。
さて演目は以下のようになった。
脇能 高砂 二番 八嶋 三番 定家 四番 道成寺 五番 呉羽
脇能がおわったあと义昭殿からお召しがかかり、信长公は义昭殿の近くへ参上した。
やって来た信长公に义昭殿はみずから酌をして酒を注いでやり、さらに鹰と铠を下赐し
た。武门の名誉これに过ぎたるものはなかった。このあと义昭殿は四番の道成寺で信长
公の鼓を闻きたいと言い出したが、信长公はこれをことわった。演目は终了し、一座の
者には信长公から盛大な引出物が赠られた。
この観能の会からまもなくして、信长公は分国中に数多存在していた诸関税の廃止を
実行した。旅人の往还の便利を考えての政策であり、人々は贵賎を问わず大いに喜んだ
。
6、岐阜凯旋 (信长御感状御顶戴の事)
10月24日、信长公は义昭殿へ帰国の挨拶を申し述べた。これに対し义昭殿からは翌日
感状が下された。文面は以下の通りであった①。
今度国々凶徒等、不歴日不移时、悉令退治之条、武勇天下第一也、当家再兴不可
过之、
弥国家之安治偏凭入之外无他、尚藤孝・惟政可申也
十月二十四日 御判
御父织田弾正忠殿
御追加
今度依大忠、纹桐・引両筋遣候、可受武功之力祝仪也。
十月二十四日 御判
御父织田弾正忠殿
前代未闻の栄誉であり、めでたさは言叶につくしがたかった。
翌26日信长公は帰国の途につき、江州守山・柏原を経て28日岐阜へ帰还を果たした。千
秋万歳ともいうべき庆事であった。
( ①信长を「御父」と呼んで畿内平定の谢辞を述べ、追记で足利纹の使用を许している
。)
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1F:→ indept:真的不能贴翻译後的版本吗? 03/18 12:02