作者Eiichirou (水曜日的情事)
看板WarringState
标题[史料] 信长公记 首卷31~45
时间Mon Mar 17 11:25:57 2008
资料来源
http://home.att.ne.jp/sky/kakiti/shisaku.html
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信长公记
首巻31~45 长良川退阵~小牧移転~稲叶山陥落
31、里山崩レテ风寒シ (信长大良より御帰阵の事)
长良川の戦は斎藤义龙势の胜利に终わった。首実検を行い、戦胜に士気の上がる义龙
势は、大良口①の信长公御阵所にも军势を差し向けてきた。両军は大良の河原で激突し
た。
怒涛のごとく攻め寄せる美浓势の前に、山口取手介や土方彦三郎といった名のある勇
士が瞬く间に讨ち取られた。また森三左卫门可成は美浓势の千石又一と渡り合い、膝を
斩られて退いた。このような惨况の中、本阵には道三讨死の报が届いた。まさに决定打
であり、诸将は恐慌に陥りかけた。それを押さえ、信长公が厳然と命を下した。
「背後は川である。足の重い雑人・牛马をまず退かせよ。汝らはそのあとにゆるゆると
退くべし。心配は要らず。信长が殿に立つ」この言叶に従い、全军は川を渡って退却を
始めた。信长公はわずかな供回りを连れて船に乗り、水上に残った。やがて前方に追撃
军の先手の骑马武者が现れ、そのなかの数骑が川端まで马を寄せてきた。その时信长公
が轰然と鉄炮を放った。この势いに呑まれて追撃军は渡河を踌躇し、追撃を打ち切った
。信长公は悠然と退却した。
信长公の盟友道三の死は、尾张の状势にも変化をもたらした。尾张上四郡の主・织田
伊势守信安殿は斎藤义龙と结んで势いを得、清洲近くの下之郷②に侵入して放火を行っ
た。これに対し、信长公はすぐさま兵を率いて岩仓に攻め寄せ、报复に近在の伊势守领
を焼き払った。
岩仓に呼応し、下四郡でも信长公に反旗をひるがえす者が相次いだ。
( ①现羽岛市 ②现春日町。清洲北方)
32、政略武略 (武卫様と吉良殿御参会の事)
清洲から三十町ほど隔てた下津の郷①に、正眼寺という曹洞宗の寺があった。要害の
地であり、ここに岩仓方が砦を构筑しようとしているとの风説が立った。これに対し、
信长公は先手を打って清洲の町人を动员し、寺の薮を切り払わせて要害としての価値を
无くそうとした。
ところが、作事が始まってから町人たちが不安を诉えはじめた。敌地にほど近い场所
での作业であるのに、警备の人数がわずか八十骑余りでは心许ないというのであった。
町人たちの不安は的中した。岩仓方がこの动きを察知し、三千あまりの兵を缲り出し
てきたのである。信长公は考えを廻らし、後阵に竹枪を持って兵に拟装した町人たちを
入れて大军に见せ、その上で前卫の足軽に小规模な戦闘を缲り返させて援军までの时间
を稼いだ。
弘治2(1556)年4月上旬、三河国守护吉良义昭殿と武卫斯波义银様との対面の仪が、
骏河の今川义元の斡旋でまとまった②。対面へおもむく武卫様の御供として、信长公も
出阵した。対面の场は三河の上野原③である。
双方约束の上野原に到着し、互いに一町ほどの距离を置いてものものしく人数を立て
备えた。言うまでもなく、参会した両势の一方には吉良殿が、また一方には武卫様がそ
れぞれ阵前に床机を据えてすわっていたが、なぜか両人ともそこから动こうとしなかっ
た。実は対面の席次のことで争いがあったのである。双方とも譲らず、结局対面はたが
いに十歩ほど前へ出て顔を见せただけで、格别の挨拶の品もなしに终了してしまった。
対面のあとはそれぞれすぐに人数を引き取った。
この仪の後、信长公はあらためて武卫様を国主として崇め、清洲城本丸を譲ってみず
からは北矢蔵に移った。
( ①清洲北西、现稲沢市 ②义元はこの会见によって三河・尾张への心理的効果をねら
い、信长は国内统一に向けて守护拥立をアピールしようとした。 ③现豊田市)
33、贵种有毒 (吉良・石桥・武卫三人御国追出しの事)
尾张の国端の海沿いに、名族石桥殿の座所があった。武卫様と吉良殿はこの石桥殿と
通じて信长公に対し谋反をくわだて、河内の服部左京と结んで海上から今川势を引き入
れようとした①。しかし计画半ばにして露见し、御三方は即刻国外に追放された。
( ①守护斯波义银は実権回复を企図し、信长を頼っていた吉良氏と通谋して信长排斥を
企てた。)
34、浮野の戦い (浮野合戦の事)
永禄元(1558)年、信长公は岩仓の织田信贤殿①と戦うべく、7月12日清洲を进発した
。清洲から岩仓までは三十町足らずの距离であったが、直进すれば悪所が続くため信长
公は地形を选んで北西に三里迂回し、岩仓西方の浮野②という地に展开した。これに対
し岩仓方も兵三千を率いて城を出て、信长公と対峙した。
戦は午刻にはじまった。信长势は南东へ突撃して数刻にわたって激戦を展开し、岩仓
势を追い崩した。岩仓势は壊乱し、逃げまどうところを次々と信长势に讨ち取られてい
った。
岩仓势の中に、近在の浅野という村の士で林弥七郎という弓の名手がいた。败军の中
弓を片手に退いていたところへ、追撃してきた鉄炮の名人桥本一巴に声をかけられた。
二人は近しい间柄であった。
「弥七郎、汝とは长年の知音なれど、この场に至りては助けることもかなわじ。胜负」
「心得候」
弥七郎は矢をつがえ、振り返りざまに放った。矢は见事桥本の脇の下へ命中した。しか
し桥本もすでに発射态势を整えており、弥七郎へ向けて二発玉を発射した。これも命中
し、弥七郎はもんどりうって倒れた。そこへ信长公の御小姓衆の佐脇藤八が手柄を得よ
うと走りよって来た。弥八郎は倒れながらも大刀を抜きはなって応戦したが、ついに讨
ち取られた。比类なき奋戦であった。
信长公は清洲へ人数を纳め、翌日首実検を行った。首数は千二百五十余にのぼった。
( ①岩仓织田家では守护代织田信安と子の信贤とが争い、信贤が信安を追放して実権を
掌握した。 ②现一宫市)
35、岩仓攻め (岩仓落城の事)
永禄2(1559)年春より信长势は岩仓城に攻め寄せ、城下を焼いて裸城にし、四方を鹿
垣で囲み、廻番を定めて长期攻囲の态势をとった。攻囲は二、三か月におよび、城内に
は连日火矢・鉄炮が撃ち込まれた。万策尽きた织田信贤殿は、ついに城を明け渡して降
伏した。
城兵は思い思いに退去し、城は破却された。
36、森部の戦い (もりべ合戦の事)
永禄4(1561)年5月13日、信长公は木曽・飞騨の両大河を渡り、胜村①に阵を构えた
。西美浓方面への出兵である。
この动きに対し美浓势からは翌14日、长井甲斐守・日比野下野守らが豪雨をおして墨
俣から兵を缲り出し、森辺②まで进んできた。敌のこの拙速な进军を见た信长公は、「
天の与うる所」とほくそえみ、全军楡俣川を押し渡って敌势へ杀到した。
戦は数刻にわたる乱戦ののち信长公の大胜に终わった。美浓势は大将の长井・日比野
をはじめ百七十人余が讨ち取られたが、戦死者の中にはたまたま大将の二人に気に入ら
れて美浓にとどまっていた近江猿楽の若衆の姿もあった。主に殉じての死であり、まこ
とに哀れな様であった。
この戦で前田利家は首を二つ取った。うち一つは日比野下野の与力で足立六兵卫とい
い、「颈取足立」の异名をとって美浓では知らぬ者のいない大刚であった。利家は当时
信长公の勘気をこうむって出仕を禁じられており③、桶狭间の际にも前哨戦で一つ、追
撃时に二つの首を挙げたものの、许されることはなかった。このたびも强引に出阵した
ものであったが、みごと名誉の首を挙げたことでようやく赦免されることになった。
( ①现岐阜県平田町 ②现安八町森部。信长军は墨俣から南下してきた斎藤势に一気に
突入した。 ③前田利家は永禄2年に信长の同朋衆を杀害して出仕停止を受けていた。)
37、十四条攻防 (十四条合戦の事)
森部の戦いの後、信长公は墨俣①を夺い、ここを要害として滞阵していた。すると23
日になって态势を立て直した美浓势が押し寄せ、北方の十四条②に人数を立て备えた。
信长公は墨俣を出てこれを迎え撃ったが、劣势となり御味方の瑞云庵信清殿の弟が讨死
した。信长公は兵を引き、势いに乗った敌は北軽海③まで南下して织田势の东へ出た。
信长公は退势の中马を駆けめぐらせて军をとりまとめ、西軽海の古宫に阵を取って东の
敌と向かいあった。
そうして互いに足軽を出し合い戦わせるうちに夜となった。それでも戦は続けられた
が、夜半に転机が访れた。真木村牛介らを先头に攻め寄せてきた美浓势を、织田势が撃
退することに成功したのである。逆袭に転じた信长公は美浓势を追って突撃し、池田恒
兴・佐々成政は敌方の稲叶又右卫门を讨ち取った。その後は暗闇の中での混戦となった
が、次第に织田势の优势となり、敌は夜のうちに撤退していった。信长公も翌朝戦场を
あとにして墨俣へ戻った。
( ①现墨俣町 ②现真正町。墨俣の北、岐阜から西に位置する ③同じく现真正町内)
38、才干死す (於久地惣构破るるの事)
永禄5(1562)年6月下旬、信长公は织田信清殿の於久地城①を攻めた。戦は御小姓衆が
先悬けとなって惣构を押し破り、曲轮内に突入して数刻にわたる戦いとなった。
この戦いで御小姓衆の岩室长门守が敌にこめかみを突かれて讨死した。岩室は桶狭间
のおり急に出立した信长公にいちはやく随従した人物であり、隠れなき才人であった。
信长公の惜しみようは一方ならなかった。
( ①小口城。现爱知県小口町。犬山の织田信清(信长従弟)が斎藤龙兴と结んで反抗した
ため、その支城の小口城を攻めた。)
39、小牧移転 (二宫山御こしあるべきの事)
当时信长公は清洲を居城としており、国の中心として清洲は大いに栄えていた。
ところが永禄6(1563)年のある日、信长公はおもだった家臣すべてを引き连れて二之
宫山①の高所にのぼり、「この地に筑城する」と突如宣言した。そうしてその场で家臣
団に移住を命じたうえ、この谷には谁々、あの峰には谁々という具合に屋敷割りまで决
定してしまった。その日から信长公は二之宫移転のことを重ねて口にするようになり、
どうやら本気で考えているらしいことがわかってきた。
家臣団は大混乱におちいった。住み惯れた清洲を引き払って二之宫のような山中に移
る苦労は、はかりがたいものがあった。清洲の町民达にとっても迷惑は同様で、たがい
に顔を合わせては口々に不満をささやきあった。
そのような中、信长公は「やはり、小牧山にする」といって正式な移転地を小牧①に
変更した。清洲から小牧へはふもとまで川続きであり、人马・道具の移动は自在である
。人々は喜んで支度をはじめた。ここに信长公の知略があった。最初に难所の二之宫へ
の移転を表明し、その後で场所を移りやすい小牧に変えたことで、清洲からの移転その
ものに対する不満をやわらげたのである。
小牧から於久地城へは二十町ほどの距离しかなかった。城衆は眼前に要害が完成しつ
つあるのを见、これ以上の防御は不可能とみて犬山へ撤退していった。これによって织
田信清殿は犬山一城に押しこめられた。
( ①现犬山市二之宫 ②现小牧市。城郭が完成して信长が移転したのは翌永禄7年顷と
される。)
40、美浓侵蚀 (加治田の城御身方に参る事)
犬山から国境の木曽川をはさんだ対岸には美浓方の鹈沼城①・猿喰城②があり、信长
公を悩ませていた。またこの両城からさらに五里奥へ进んだ加治田③にも美浓势の拠点
があり、佐藤纪伊守・右近右卫门亲子が入っていた。
永禄8(1565)年7月、その加治田の佐藤亲子が、丹羽长秀を通じて信长公へ内々に忠节
を申し入れてきた。当时美浓国内に内通者を切望していた信长公は大层喜悦し、やって
来た使者に対し「これで兵粮を调えよ」と黄金五十枚を与えた。
( ①现岐阜県各务原市 ②现岐阜県坂祝町 ③现岐阜県富加村)
41、犬山落城 (犬山両おとな御忠节の事)
永禄7(1564)年8月、犬山の家老和田新介・中嶋豊後守の両名が、これも丹羽长秀の
调略により信长公へ内通してきた。信长势は両名の手引によって犬山へなだれ込み、城
下を焼いて裸城にし、鹿垣をもって城を十重二十重に取り囲んだ。攻囲はそのまま丹羽
长秀が担当し、まもなく城は落ちた①。
( ①织田信清は攻囲军を支えきれず、城を脱出して甲斐へ亡命した。これにより信长
の尾张统一がほぼ完成した。)
42、宇留摩・猿喰 (浓州伊木山へ御上りの事)
永禄8(1565)年夏、信长公は飞騨川を越え东美浓へ乱入した。标的は宇留摩・猿喰
の両城である。このとき宇留摩城は大沢次郎左卫门が、猿喰城は多治见修理がそれぞれ
城主をつとめており、両城は犬山の対岸で近接してたがいに连络をとりあっていた。
信长公はこの二城を攻めるにあたり、両城から十~十五町の距离にあってしかも両城
を见下ろすことのできる伊木山①という高山に着目し、この山に要害を筑いた。织田势
は完成した要害に入り、昼夜城をにらんで滞阵した。山にほど近い宇留摩城はこの圧迫
に耐えかね、穷したすえに降伏してきた②。
猿喰の城は木曽川に沿った高山の上にあり、城衆は地の利を生かしてよく戦った。し
かし丹羽长秀の势が城に隣接した大ぼて山とよばれる高所を占拠して水の手を断つにお
よび、ついに力尽きて开城した。
( ①木曽川北岸、现各务原市内 ②诱降には木下藤吉郎があたったとされるが、本文に
は登场しない。)
43、堂洞の勲功 (堂洞取出攻めらるるの事)
猿喰の三里北には加治田城があり、城主の佐藤纪伊守亲子は织田方となって働いてい
た。
永禄8(1565)年9月、美浓の长井道利はこの城を夺取しようとし、加治田から二十五町
先の堂洞①に砦を筑いて岸勘解由左卫门らを入れ、みずからは锻冶で名高い関②に本阵
を构えた。
この加治田城の危机に际して信长公はすぐさま援军をもよおし、28日敌の前卫の堂洞
を突いた。堂洞は三方が谷となって落ち込み、东の一方だけが丘続きとなった坚牢の地
であり、この日は强风が吹いていた。
信长公はこの状况を见、阵を駆けめぐって「松明を用意せよ。塀际まで押し寄せ、四
方より投げ入れるべし」と下知してまわった。同じ顷长井道利は堂洞砦から二十五町の
距离まで进军していたが、织田势の盛んな势いの前に足軽さえ出せずにいた。
信长公は人数を立てて砦を囲み、作戦通り砦内へ松明を投げ入れて二の丸を炎上させ
、そこから一気に攻め寄せて本丸に取り付いた。当时太田又助といった笔者は、このと
き二の丸の焼け残った建物の屋根にただ一人のぼり、本丸の敌を一本の无駄矢もなしに
射続けていた。信长公は笔者のこの戦振りに感じて三度まで使者を下され、知行を重ね
られた。
午刻よりはじまった戦もすでに酉の刻(5时)を过ぎ、薄暮にさしかかったころ、河尻
与兵卫秀隆が本丸への突入に成功した。つづいて丹羽长秀の势も突撃したが、岸勘解由
や多治见党はなお果敢に抵抗し、城中は敌味方の见分けもつかぬ混戦となった。しかし
つぎつぎと押し寄せる织田势の前に城衆は次第に讨ち减らされ、大将分の侍も大方が讨
ち取られた。夜になって砦は落ちた。
砦の陥落後、信长公は加治田へ出て佐藤亲子を引见し、その夜は息子の右近右卫门の
屋敷へ泊まった。亲子はそれぞれ感涙にむせび、感谢の言叶も容易に浮かばぬ様子であ
った。
翌29日、信长公は山下の町で首実検をおこなったのち帰阵の支度にかかっていた。
そこへ変报が入った。稲叶山の斎藤龙兴がみずから出势し、関の长井势と合流して押し
寄せてきたというのである。その数约三千ということであった。これに対して信长公の
人数はわずかに七、八百にすぎず、手负いの者も数多かった。信长公は退却を决意した
。幸いにも背後は一面の広野となっており、逃れやすい地形であった。织田势はまず阵
を固く构えて敌に备え、そのあいだに负伤者と雑人を退却させた。そのあとで健全な武
者たちが阵を払い、马を軽々と引きまわして退いていった。敌はまったく成果なく、残
念この上ない様子であった。
( ①现富加村・美浓加茂市境 ②现関市。堂洞北西。现在も锻冶で知られる。)
44、美浓落つ (いなは山御取り候事)
永禄9(1566)年4月上旬、信长公はふたたび木曽川を渡り美浓国各务野①へ侵入した。
これに対して斎藤龙兴も井口を出て新加纳②に阵したが、この地は地势が悪く军の进退
が难しいため信长公は交戦を断念し、その日のうちに帰阵した。この年は木曽川を越え
て一进一退が続いた③。
しかし翌永禄10(1567)年8月、状势に一大転机が访れた。稲叶伊予守一鉄良通・氏家
ト全直元・安藤伊贺守守就の美浓三人衆がたがいに申し合わせ、信长公への忠节を打诊
してきたのである。かれらはその证拠として人质を供出する旨を申し出てきた。信长公
はこれを承诺し、尾张から村井民部丞贞胜・岛田所之助秀顺が人质受领に西美浓へ赴い
た。
ところが信长公は人质の到着も待たずに突如军势を催し、稲叶山南麓の瑞龙寺山へ駆
けのぼった。そうして美浓の人士があれは敌か味方かと慌てふためく中を火神のごとく
に放火してまわり、あっというまに城を裸城にしてしまった。
翌日になって信长公は稲叶山城の攻囲を开始し、四方に鹿垣をめぐらせて城を中に取
り込めた。そのような中で美浓三人衆も来着し、肝をつぶして信长公へ谒した。このよ
うに信长公は何事につけ神速极まる下知をされる御方であった。
9月、斎藤龙兴は力尽きて降服し、伊势长岛へ退去していった。これによって美浓一
円は信长公の支配するところとなった。信长公は小牧を引き払って稲叶山に移り、当时
井口といったこの地を岐阜と改めた。
( ①②ともに现各务原市。 ③原文に记述はないが、8月にも织田势は美浓へ攻め入り
、大败したうえ大雨で増水した木曽川に追い诘められて多数の溺死者を出した。)
45、细流大河と成る (公方様御凭み百ヶ日の内に天下仰付けられ候事)
三好・松永党に追われて南都を逃れた一乗院覚庆足利义昭殿は、当初六角承祯を頼っ
た。しかし次第に不和となったため今度は越前へ下って朝仓左京大夫义景のもとに身を
寄せた。越前では朝仓义景へしきりに上洛を勧めたが、义景は中々腰を上げようとしな
かった。
そうして焦燥の日々を送るうち、义昭殿は浓尾二州に台头した信长公への関心を高め
ていった。やがて义昭殿は朝仓を见限って织田家を頼ることを决意し、细川兵部太辅藤
孝・和田伊贺守惟政を使者に立てて信长公へ尽力を要请した。信长公はこれを快诺し、
越前へ向けすぐさま迎えの使者を遣わした。永禄11(1568)年7月、义昭殿は岐阜に入っ
た。
义昭殿はこれより百日を経ずして征夷大将军となり、无事本意を遂げることができた
。すべては信长公の功绩によるものである。
ところで永禄の初めごろ、丹波国长谷に赤沢加贺守という侍がいた。内藤氏の与力を
つとめて城主の身分にある一方、大変な鹰数寄として知られていた。ある时赤沢は関东
へ下り、かの地で见事な羽と嘴を持った鹰を二连买い求めてきた。そして帰途尾张へ立
ち寄って信长公と会见し、买った鹰二连のうち好きな方を进上しようと申し出た。信长
公はこの申し出に対し、
「志のほど感悦至极である。しかしながら、鹰は信长の天下となるまで预けおく」
と答え、鹰を返してしまった。
赤沢はこのことを京で语ってまわった。人々はみな「远国の身で、不逊なことよ」と
嘲笑した。ところがその後十年を待たずに信长公は见事上洛を果たしたのである。
ふしぎなることどもが、群云のごとく涌き起こった时代であった。
首巻上洛以前 完
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