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资料来源 http://home.att.ne.jp/sky/kakiti/shisaku.html 括弧内文字 标题後为网页中小字 段落後则为注释 信长公记 首巻21~30 信长と信玄~桶狭间の戦い~道三の死 21、信玄入道  (天沢长老物かたりの事)  尾张に天沢という天台宗の高僧があった。この天沢は所用で関东へ下る途中、甲斐で 土地の奉行にすすめられて武田信玄に会うことになった。  対面の场で、信玄はまず生国をたずねてきた。尾张にございます、と答えると、さら に郡の名を闻いてきた。これに対しては、「上総介殿御居城の清洲から五十町ほど东に 下った味镜と申す村の寺に居ります」と详细に答えた。すると信玄は、信长公の人とな りをありのまま残さず语るように求めた。天沢は信长公について自分の知るかぎりを答 えた。毎朝御马に乗っておられます。鉄炮・弓・刀はそれぞれ师匠について习っておい でです。しばしば鹰狩に出られます… 「风流は嗜むか」 「舞と小呗を好まれます」 「幸若大夫を呼んでいるのか」 「清洲の町衆に友闲と申す者がおります。この者がその道に详しく、よくお召しになっ ております。上総介様御自らは、敦盛の一番のほかは舞いませぬ。人间五十年下天の内 をくらぶれば梦幻の如くなり、といつも口にされて舞われます」 「小呗もうたうか。异なものを好むことよ。いかなる歌ぞ」 「死のうは一定、しのび草には何をしよぞ、一定かたりをこすよの、と呗われます」 「ちとその真似をしてみよ」 「…沙门の身にござれば、御勘弁くだされ」 「御坊、ぜひ」仕方なく、天沢は真似をしてみせた。   22、鹰と戦  (六人衆と云ふ事) 「鹰狩はどのようにしておる」 「鸟见の衆と申して二人を一组とし、获物を见つけると一方が见张りをし、一方が注进 に及びます。また六人衆というものを定め、これに弓と枪を持たせてお手廻りとして使 います。そして骑马の者があぶをゆわえた藁を手に获物のまわりを回って注意を引き付 け、その隙に上総介殿が近づき、鹰を放ちます。获物の落ちる方向にはあらかじめ向待 の者を农夫に変装させて配置しており、この者が最後に获物をおさえます。上総介殿は 名人ゆえ多くの获物を手にされると闻き及んでおり申す」  信玄はこれらの话を闻き、「信长の戦ぶりのよきこと、道理である」と言い、なにや ら纳得の様子であった。天沢は帰途も立ち寄ることを约束して退出した。   23、临戦  (鸣海の城へ御取出の事)  尾张に今川の势力が进入していることが、信长公の苦痛のたねであった。  今川方の前线鸣海城は天白川の河口近くにあり、东は丘陵が连なり、西には深田が広 がる。信长公はこの城の押さえとして丹下・善照寺・中岛①に砦を筑き、それぞれ水野 帯刀・佐久间信盛・梶川平左卫门を入れた。さらに鸣海と大高城との间にも丸根砦・鹫 津砦②を构筑して両城を分断し、丸根は佐久间盛重に、鹫津は织田玄蕃秀敏と饭尾近江 守亲子に守らせた。 ( ①いずれも名古屋市緑区。鸣海城を半円状に囲み、北に丹下・东に善照寺・南东に中 岛が位置する。 ②鸣海南方。南の大高を押さえる。)   24、桶狭间  (今川义元讨死の事)  永禄3(1560)年5月17日、今川义元势の先阵は沓挂に参着し、翌日大高城へ兵粮を运び 込んだ。この动きから、今川势は翌19日の援军の出しにくい満潮时を选んで织田方の各 砦を落としにかかるに违いなしとの予测がなされ、18日夕刻から丸根・鹫津からの注进 が相次いだ。  しかしその夜、信长公は特に军立てをするでもなく、雑谈をしただけで家臣に散会を 命じてしまった。家老たちは「运の末ともなれば、智慧の镜も昙るものよ」と嘲笑して 帰っていった。悬念の通り、夜明け时になって鹫津砦・丸根砦が囲まれたとの报が入っ た。  注进をしずかに闻いたあと、信长公は奥に入った。 そこで敦盛の舞を舞い始めた。  人间五十年 下天の内をくらぶれば 梦幻の如くなり 一度生を得て灭せぬ者のある べきか ひとしきり舞った。 そして、 「贝を吹け」 「具足をもて」 とたて続けに下知を発した。出された具足をすばやく身につけ、立ちながらに食事をす ると、信长公は兜を被って马にまたがり、城门を駆け抜けた。このとき急な出立に気づ いて後に従ったのは、岩室长门守ら小姓衆わずかに五骑であった。  主従六骑は热田までの三里を一気に駆けた。辰の刻(7时)ごろ、上知我麻神社①の前 で东方に二条の烟が立ち上っているのを见、信长公は鹫津・丸根の両砦が陥落したこと を知った。この间、出阵を知った兵が一人二人と追い着き、人数は二百ほどになってい た。  热田からは内陆の道を进み、丹下砦に入り、さらに善照寺砦に进んで兵の参集を待ち 、阵容を整えた。そして前线からの谍报を待った。御敌今川义元は、このとき桶狭间に て四万五千の兵马を止めて休息していた。  时刻は19日の正午にさしかかっていた。义元は鹫津・丸根の陥落を闻いて机嫌をよく し、阵中で謡をうたっていた。また徳川家康は、この戦で先悬けとして大高の兵粮入れ から鹫津・丸根の攻略まで散々に追い使われ、大高城でやっと休息を得ていた。  信长公が善照寺に入ったのを知った佐々隼人正らは、「この上は、われらでいくさの 好机をつくるべし」と语らい、三百あまりの人数で打って出てしまった。攻撃はいとも 简単に跳ね返されて佐々は首を挙げられ、配下の士も五十余骑が讨死した。これを闻い た义元は「わが矛先には天魔鬼神も近づく能わず。心地よし」とさらに上机嫌になり、 謡を続けた。  信长公はさらに中岛砦に进もうとした。しかし中岛までは一面の深田の间を缝って狭 い道がつながっているのみであり、敌からは无势の様子が丸见えとなるため、家老たち は马の辔をとって諌めた。それでも信长公は闻かず、振り切って中岛砦へ移った。この 时点でも人数は二千に満たなかったということである。信长公はさらに中岛をも出よう としたが、今度はひとまず押しとどめられた。  ここに至って信长公は全军に布达した。 「闻け、敌は宵に兵粮を使ってこのかた、大高に走り、鹫津・丸根にて枪働きをいたし 、手足とも疲れ果てたるものどもである。くらべてこなたは新手である。小军ナリトモ 大敌ヲ怖ルルコト莫カレ、运ハ天ニ在リ、と古の言叶にあるを知らずや。敌悬からば引 き、しりぞかば悬かるべし。而してもみ倒し、追い崩すべし。分捕りはせず、首は置き 舍てにせよ。この一戦に胜たば、此所に集まりし者は家の面目、末代に到る功名である 。一心に励むべし」  ここで、前田又左卫门利家・毛利十郎・木下雅楽助らがそれぞれに斩获した首をもっ て参阵した。信长公はこれらも手势に组み入れ、桶狭间の山际まで密行した②。すると にわかに天が昙り、强风が吹き付け、大地を揺るがす豪雨となった。この突然の岚によ って、沓挂の峠に立つふた抱えほどもある楠が东へ向け音をたてて倒れた。人々はこれ ぞ热田明神の御力であろうとささやき合った。  やがて空が晴れてきた。信长公は枪を天に突き出し、大音声で「すわ、かかれえっ」 と最後の下知を下した。全军は义元本阵めがけ黒い玉となって駆け出した。  この様を目にした今川势は、ひとたまりもなく崩れたった。弓も枪も鉄炮も打ち舍て られ、指物が散乱した。义元の涂舆までも置き去られた。未刻(午後2时顷)のことであ った。  この混乱の中にあって、义元は周囲を三百骑ばかりに囲まれて後退していた。そこを 织田势に捕捉され、数度にわたって攻撃を受けるうちに五十骑ほどにまで减ってしまっ た。  信长公も马を下り、旗本に混じってみずから枪をふるい、敌を突き伏せた。周りの者 达も负けじと勇戦し、镐を削り锷を砕いて激戦を展开した。歴戦の马廻・小姓衆にも手 负いや死者が相次いだ。そのうちに服部小平太が义元に肉薄した。义元は佩刀を抜いて 服部の膝を払い、これを凌いだが、その横合いから今度は毛利新介が突进してきた。义 元も今度は防げず、毛利の枪に突き伏せられてついに首を预けた。毛利は先年武卫様が 遭难された折、その弟君を救った者である。人々はその冥加があらわれてこのたびの手 柄となったのだろうとのちに噂した。  戦は扫讨戦に移った。桶狭间は谷が入り组み、谷底には深田が作られている。まった くの难所であり、逃げまどう今川势は田に踏み込んでは足をとられ、织田势に追いつか れて首を挙げられた。信长公の元には首を得た者达が続々と実検におとずれた。信长公 は実検は清洲にて行うと申し渡し、义元の首のみを见、もと来た道をたどって帰阵した 。晴れやかな表情であった。  これより先、信秀殿の死後すかさず今川方に寝返った鸣海城の山口亲子は骏河に召し 出され、切腹させられていた。この度义元は鸣海に四万の大军を置きながら、わずか二 千の信长公に讨たれてしまったが、これも山口亲子を杀害した因果というものであろう 。  一方今川方にも勇士がいた。骏河の士でかねて义元に目をかけられていた山田新右卫 门という者は、义元讨死と闻くや马首を返して织田势に突入し、戦死を遂げた。また二 俣城主の松井五八郎は、その一党二百人とともに戦场に枕を并べて讨死した。  河内を占拠していた服部左京助は义元に呼応して大高の沿岸まで兵船を出し、热田の 町を焼き讨ちしようとしたが、住民の反抗にあって数十人を讨たれ成果なく河内へ引き 返した。  信长公は马先に义元の首を下げて日付の変わらぬうちに清洲に帰着し、翌日になって 首実検を行った。首数は三千余にのぼった。义元の同朋をつとめていた者が下方九郎右 卫门に捕らえられ、引き出されてきた。同朋は义元をはじめ见知った首についてその姓 名を书きつけてまわった。信长公はこの同朋に褒美を与え、僧を伴わせて义元の首を骏 河に届けさせた。  清洲から热田へ向かう街道筋の南须贺には义元塚が筑かれ、供养のため千部経が行わ れ大卒塔婆が立てられた。义元の佩いていた左文字の铭刀は信长公の爱用するところと なった。  鸣海城には冈部五郎兵卫元信が篭っていたが、降伏して退去した。前後して大高城・ 沓悬城・池鲤鲋城・重原城も开城した。 ( ①现名古屋市热田区 ②従来、织田军は善照寺から北に迂回し、桶狭间北方の太子ヶ 根に出て眼下の谷间にいた今川军を攻撃したと语られてきたが、最近では中岛から东海 道沿いに南东へ直进し、桶狭间南方の山に阵を取っていた今川军を一挙に叩いたとする 説が有力となっている。速力はこの顷の织田军の最大の强みであり、信长はそれを见事 に活かした。)   25、信行诛杀  (家康公冈崎の御城へ御引取りの事)  桶狭间の戦の後、徳川家康は冈崎城に入っていた。信长公は义元の死に乗じて三河に 进攻し、梅が坪城①を攻めた。戦ははじめ激しい弓戦になり、のち城兵が打って出て激 しい白兵戦となった。この戦で前野长兵卫が讨死した。また平井久右卫门という者はそ の强弓を敌味方から赏賛され、信长公から褒美を与えられた。信长公はさらに伊保城・ 八草城へも押し寄せ、田畑薙ぎをおこなった。  さて义元の死以前のことである②。信长公の御舎弟勘十郎信行殿は竜泉寺に筑城し、 上郡岩仓の织田伊势守信安と结び、信长公の直辖领である筱木三郷③の押领をもくろん でいだ。  そのような中、信行殿の家中に津々木蔵人という若衆がいた。信行殿の覚えめでたく 、家中の面立った侍はみな津々木に付けられた。自然津々木は骄り、老臣の柴田胜家を 軽んじるようになった。柴田はこれに愤慨して信长公の下へ奔り、信行殿が再度の谋反 を企てている旨を密告した。  信长公はこの日から病の体をよそおい、表へ一切出なくなった。信行殿は、御袋様や 柴田から「御兄弟の间柄です。御见舞いに行かれませ」と勧められ、弘治3(1557)年11 月2日、清洲へ见舞いに赴いた。そして清洲城北矢仓天主次の间において杀害されてし まった。この时の功绩があって、柴田はのち信长公から越前国を与えられるまでに出头 したのであった。 ( ①现豊田市 ②以降35段岩仓攻めまで话は桶狭间以前に戻る。御注意 ③那古野北 方、现春日井市。信行は以前からこの地を窥っていた。)   26、天下见物  (丹羽兵蔵御忠节の事)  永禄2(1559)年の顷、信长公は突如上洛を思いたち、随行八十名を伴って京へ上った 。都を见物したのち奈良・堺へも足を伸ばすという行程で、京では公方の光源院义辉殿 に拝谒した。随行の者达は、「此度の上洛、家の名誉ナリ」と、晴れがましい気持で各 々装いを凝らしていた。  清洲の那古野弥五郎家中の者で丹羽兵蔵という机転のきく者がいた。尾张からの使い として信长公の後を追って上洛する途中、近江志那の渡しで人体寻常でない人物に率い られた三十人ばかりの一行と同船した。船中彼らは「贵殿、生まれはいずくぞ」と闻い てきた。丹羽が「三河の者にござる。尾张を通ってまいった」と答えると、一行はつっ と视线を下に落とし、沈黙した。さらに「尾张では何かと面倒や気遣いが多うござった 」というと、一人が「上総めは甲斐性无しよ」と言い舍てた。いかにも人目を忍ぶ风で あった。丹羽は一行に不审を感じ、彼らの泊まる宿场宿场にみずからも宿を取り、土地 の子供を手なずけて彼らの身元を寻ねさせた。一行は丹羽を三河の者とみて気を许した のか、使いの子供に対し、「我らは汤入りに来たのではないぞ。美浓から大事の命を受 け、织田上総介の讨手に上るのだわ」と口を割ってしまった。  丹羽はこれを闻き、さらに详细を知るべく夜间一行の中にまぎれて会话を盗み闻きし た。「あとで公方様の许し状を贳って宿の者に下されれば、宿を袭うて鉄炮で讨ちとっ ても不都合は生じまい」などと言っているのが闻こえた。  讨手の一行は夜のうちに京に到着し、二条蛸薬师のあたりに宿を取った。丹羽はその 宿の门柱を削って目印とし、それから信长公の宿所を寻ねてまわった。ほどなく上京室 町通りの里辻の宿所にたどり着き、番の者に姓名を告げ、「火急の用あり。金森殿か蜂 屋殿に取次ぎ候え」と申し出た。やがて両人が出てきた。丹羽は二人に対してこれまで の経纬を详细に明かし、さらに京での宿を突き止めてきた旨を付け加えた。両人は丹羽 の労をねぎらい、奥に入って谈合するうち、夜が明けた。  朝になり、金森长近は丹羽を伴って讨手の宿所に赴いた。讨手の美浓衆は金森と面识 のある者达だった。金森は一行に対面すると「夕べ贵殿方御上洛のこと、あるじ上総介 も存じてござるによって、このように挨拶にまかり越した次第でござる。ついては贵殿 方も上総介へ返礼し候え」と申し述べた。「上総介存知」と闻き、一行は仰天した。  翌日、美浓衆は小川表の管领屋敷に参上した。信长公も小川表见物と称して出てきて 、彼らと対面した。信长公は彼らに大音声で呼びかけた。 「汝らは上総介の讨手に上りたるとな。若辈の分限で我を狙うとはこれ蟷螂の斧と申す ものよ。出来るものか。それともここで试して见るか」 头の者たちは一様に穷してしまった。この珍事に対し、京童は大将にはあるまじき振舞 いであるといったり、若若しき大将には似合いであるといったり、褒贬さまざまであっ た。 数日後、信长公は京を後にし、近江から八风峠を越えて尾张に帰った。   27、比良の大蛇  (蛇がへの事)  珍事があった。佐々内蔵助成政の居城・比良城は东に南北に伸びる堤があり、城をは さんだ西にはあまが池といって大蛇の化生が栖むといわれる池があった。正月中旬のこ と、福徳郷の住人又左卫门という者が雨の降る夕暮に堤のあたりを通りがかったところ 、胴回りが一抱えほどもある黒い物体が堤上からあまが池のほうへ伸びているのを见た 。人の足音を察してその物体は头を上げた。见ると鹿のような顔にらんらんと光る目、 チロチロとのぞく真红の舌を持った蛇の化生であった。又左卫门は総毛立って、恐怖の あまり後ろも见ずに逃げ去った。  この话を信长公が耳にした。信长公は件の又左卫门を召し寄せて直接に话を闻き、翌 日になって「ならば池の水を掻き出し、蛇を追い出してくれよう」と言い出した。かく て比良周辺の各村から百姓が动员され、锄・锹・钓瓶を使って池の浚渫が开始された。 作业は4时间ばかり続けられたが、池の水が七割ほどになったところでそれ以上水量が 减らなくなった。すると信长公は业を煮やし、「ならば水中に入り、信长が直に蛇を见 てやろう」といって脇差を口にくわえて池に入ってしまった。しばらくして池から上が り、「蛇など、おらぬ」と言い、つづいて家中で水练に达者な鹈左卫门という者にも池 にもぐって调べるように命じた。鹈左卫门は言われた通りに潜ってみたが、やはり蛇の 姿はかけらも见えなかった。信长公は纳得して清洲に帰った。  実はこの时、信长公にはある危机が访れていた。この大蛇騒ぎの当时、比良衆には逆 心の噂があり、このため佐々は騒ぎの间も病をいつわって御前に参上せずにいた。とこ ろが信长公は、大蛇の不在を确かめたあと「比良の城は、小城なれどなかなかによき构 えであると闻く。ひとつわが目で见てくれよう」と言い出した。比良衆はこれを信长公 が佐々に切腹を命じにくるものと考え、惑乱した。そこで家老の井口太郎左卫门という 者が一计を案じた。水上から城の外観を见せるといって信长公を船に诱い、警护が手薄 になったところで船中にて小刀をもって刺し杀そうというものであった。しかし信长公 は运が强かった。比良行きを突如取り止め、あまが池からまっすぐ清洲に帰ったのであ る。大将というものは万事に考えをめぐらし、油断なくふるまわなければならなかった 。   28、峻厳  (火起请御取り候事)  海东郡大屋という所に、织田造酒の被官で甚兵卫という庄屋がいた。隣村の一色には 佐介という者がおり、たがいに顔见知りで亲しかった。12月中旬のこと、甚兵卫が清洲 へ贡纳に赴いた留守を狙い、佐介が甚兵卫方に夜盗に押し入った。しかし女房が果敢に 応戦し、もみ合った末に刀の鞘を取り上げた。甚兵卫はこの一件を公方へ诉え出たが、 佐介の方からも反诉が出された。なお佐介は信长公の乳兄弟池田胜三郎恒兴の被官であ った。  诉讼は三王社前にて火起请①を行う运びとなり、奉行衆・当事者から検使が出された が、ここで闷着があった。佐介が火を取り落として败れ、当然処断されるべきところを 主の池田恒兴が阻んだのである。  そこへ鹰狩から帰る途中の信长公が通りがかった。信长公は当事者双方が弓・枪など ものものしく构えているのを不审に思い、双方から事情を闻き、これまでの経纬を知っ た。すると信长公は気色をかえ、「どのくらいに鉄を焼いたのだ。もういちど焼いて见 せてみよ」と言った。公事の者は言われたとおりもう一度鉄を焼き、「このようにして 握らせました」と信长公へ示した。すると信长公は、「信长が火起请を行う。无事遂げ れば佐介を成败する。そのように心得よ」と言って焼けた鉄をがっしと握り、そのまま 三歩を歩いて鉄を栅际に置いた。 「见たかあっ」信长公は怒号し、佐介を诛させた。 ( ①诉讼の当事者が焼けた鉄を握り、热に耐えることで自己の正当性を主张する方法。)   29、道三  (土岐頼芸公の事)  道三斎藤山城利政の前身は山城国西冈の出自で松波庄五郎という者であった。あると き発起して下国し、美浓で长井藤左卫门の扶持を受け、与力を付けられるまでに出头し た。その後非道にも主の首を取り、みずから长井新九郎と名乗った。これによって周辺 の长井一族との间で争乱が起こったが、长井は大桑に在城していた守护土岐頼芸殿の拥 护を受け、争いに胜利した。  しかし长井の魔手はその土岐家にも及んだ。长井はまず土岐頼芸殿の子息のうち兄の 次郎殿を婿とし、油断したところを毒杀した。次いで稲叶山を居城として山下に弟の八 郎殿を住まわせ、鹰狩・乗马その他一切を禁じて软禁した。八郎殿はたまらず尾张へ亡 命しようとしたが、露见して杀された。そして、极めつけに大桑の家老衆を篭络し、土 岐頼芸殿をも追放してしまった。頼芸殿は尾张にのがれ、以後信长公の父弾正忠信秀殿 の庇护を受けた。  恩ヲ蒙リテ恩ヲ知ラザルハ树鸟枝ヲ枯スニ似タリ、という。斎藤氏を名乗った山城道 三は微罪の者でも牛裂の刑に処し、また釜茹で际には火を罪人の亲类縁者に焚かせるな ど、まことに厳しい仕置を行った。   30、悲喜剧长良川  (山城道三讨死の事)  道三には长男新九郎义龙・次男孙四郎・三男喜平次の三人の子がおり、いずれも稲叶 山城に住んでいた。  さて概して人の栋梁というものは心が弛缓しがちなものである。道三も例外ではなく 、次第に智慧の镜が昙ってきた。义龙を愚人とみて弟二人を爱し、特に三男の喜平次の 官を进めて一色右兵卫太辅と名乗らせたのである。当然ながら弟二人は奢り、义龙を軽 んじた。义龙は心中に意を含みながら、天文24(1555)年10月、病と称して奥に引きこも った。  22日になって、道三は山下の别邸に下りた。ここで义龙が动いた。 义龙は伯父の长井隼人正道利を弟二人のもとへ使者に遣わし、「义龙重病にして今はた だ时を待つのみ。ついては、向後の事につき相谈したき仪これあり。入来されたし」と 申し送った。  长井は谋を胸に秘め、二人の甥とともに义龙のもとへ参向した。対面の前に、次室で 刀を外したのが策谋のたねであった。伯父が脱刀したのを见、甥の二人もその场に刀を 置いて対面の席についた。そうして盃を重ねて酔わせたところを日根野备中弘就に袭わ せたのである。日根野は自慢の大刀を打ち振り、难なく二人を杀害した。  义龙は事の颠末をみずから道三に通达した。道三は仰天し、いそぎ兵を立てて町を焼 き、火烟にまぎれて城下を退去した。そして长良川を越えて山県郡の大桑城に入り、息 子と対峙した。  その年はそのまま暮れた。が、雪解けとともに情势は紧迫し、春になってついに両者 は决戦を决意した。  弘治2(1556)年4月18日、道三は鹭山の高所に登って阵を构えた。信长公も盟约によっ て出兵し、木曽川・飞騨川を越えて大良の东蔵坊に入った。なお滞阵中、寺内の沟を掘 り下げる作事をしていたところ、そこから数多の铜銭が掘り起こされるという珍事があ った。  20日になって、义龙は军势を进発させた。道三も鹭山を降りて长良川まで进军し、こ こで両者が激突した。  合戦は义龙势の先手竹腰道尘の突撃で始まった。竹腰势は密集队形をとって长良川を 押し渡り、道三の本阵へ切りかかった。激戦となったが、道三は巧みな指挥で竹腰势を 溃走させ、道尘の首をあげた。道三は床机に腰挂け、「哀れなことよ。いま少し生きな がらえておれば、よき仕合せにも出会えたものを」とわずかに笑みを浮かべながらつぶ やいた。竹腰势の壊乱を见た义龙は、みずから旗本势を率いて川を越え、阵形を固めた 。この时、义龙势の中から长屋甚右卫门という者がただ一骑前へ进み出て武者名乗りを あげ、道三势に挑んだ。道三势からは柴田角内という武者が出てこの挑戦に応じ、両军 の间で一骑打ちが始まった。胜负は柴田が长屋の首を挙げて决し、决した瞬间、両军と も全军に突撃を命じた。  戦は混戦となった。无势の道三势はよく戦ったが、次第に兵も减り、ついに道三の前 まで义龙势が押し寄せてきた。道三旗本势が崩れる中、寄せ手の长井忠左卫门が突进し て道三に组み付いた。生け捕りにして义龙の前へ引き据えようとしたのである。ところ が、もみ合っていたところへ小真木源太という侍が走り寄ってきて道三の胫を薙ぎ、押 し伏せて首をかき切ってしまった。功を夺われた长井は愤激したが、ともかくも最初に 组み付いた证拠にと道三の首から鼻を削いで懐に収め、その场を退いた。  合戦は终わり、首実検が行われた。歴々の首が并べられているところへ、道三の首が 运ばれてきた。すると义龙は戦胜者の表情を一変させ、「これはわが不徳より出でし罪 である」とつぶやき、出家することを誓った。事実こののち义龙は得度し、法名を饭贺 とした。饭贺とは唐の故事にある名で、义龙と同じく父亲の首を切った人物の名であっ た。 --



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