MISIA 板


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https://www.musicman-net.com/relay/63293 第142回 与田 春生 氏 株式会社ユニバーソウル 代表取缔役社长 / 音楽プロデューサ 今回の「Musicman's RELAY」は松崎澄夫さんからのご绍介で、株式会社ユニバーソウル 代表取缔役社长 / 音楽プロデューサー与田春生さんのご登场です。お父上は数々の名 曲を生みだしてきた作词家の桥本淳さんという、音楽业界のど真ん中で育たれた与田さ んは、BMGジャパン入社後、ディレクターとして着実に実绩を积まれつつ、MISIAと出会 い、『つつみ込むように…』で成功へ导きます。ユニバーソウル设立後も、MISIAに加 え、AI、加藤ミリヤなど数多くのアーティストをプロデュースされています。今回はユ ニバーソウルのスタジオで、与田さんの特殊な幼少期から怒涛のBMGジャパン时代、 MISIA『Everything』の制作秘话、そして今後のお话までたっぷり伺いました。 作词家、桥本淳を父に持ち、幼少より歌謡曲、ソウル、ロック、クラシックなど様々な 音楽に触れ育つ。当时より自宅に出入りする作家、ディレクターに影响されクリエイテ ィブな音楽の仕事を志す。词曲のコンビにあった筒美京平氏に憧れるも、作家业の过酷 さに不安を抱きレコード会社に就职。ライジングプロダクション平哲夫氏のもとで仕事 を学び、1997年九州のオーディションで当时18歳の女の子をスカウト。MISIAと命名し 、センセーショナルなヒットを生む。以後、10年间、MISIAを中心に、AI、加藤ミリヤ 、リリコ、华原朋美などの女性シンガーを中心にプロデュース活动を展开している。こ れまでに制作したCDの売上げは、3000万枚に及ぶ。 1. 音楽业界の日常を肌で感じていた少年时代 ──前回ご登场いただきました松崎澄夫さんとはどのようなご関系なんでしょうか? 与田:父亲が作词家をやっておりまして(※)、実家は千駄ヶ谷なんですが、ビクター 音楽産业(现 ビクターエンタテインメント)とビクタースタジオのちょうど中间あた りに家があったんですね。それでビクターのディレクターさんとかは、会社とスタジオ を歩いて往复していたんですが、中间に家があったので、ビクターの人が毎日のように 来ていたんですね。 ※作词家・桥本淳氏。『ブルー・シャトウ』『ブルー・ライト・ヨコハマ』『亜麻色の 髪の乙女』など名作多数。 ──毎日のようにですか。 与田:学校から帰ってくると大抵レコード会社の人とか、作家の人、プロダクションの 人がいて、打ち合わせとかをやっていましたね。仆はご饭を食べて宿题をやって自分の 部屋に戻って、しばらくしてリビングに行くと麻雀が始まっているんですが、その中に よく松崎さんがいたんですね(笑)。 ──(笑)。 与田:21时とか22时くらいになると「そろそろ寝なさい」と言われて寝るんですけど、 朝学校に行くのに起きてリビングに行くとまだ麻雀が続いているんですよ(笑)。それで 「いってらっしゃい」なんて言われて送り出されていました。 ──朝まで麻雀が続いていたんですね(笑)。 与田:テストかなにかある日に寝坊しちゃって、母亲と焦って准备していると、「寝坊 したの? じゃあ送っていってあげるよ」って谁かが学校まで送ってくれたり、ひどか ったのは运动会の日、入场行进で歩いていったら父兄の席の先头で、父と麻雀していた 4人が寝ているんですよ、その中に彻マン明けの松崎さんも(笑)。そういう环境でした 。 ──素晴らしい环境ですね(笑)。 与田:当时ビクターの饭田久彦さんとか、キャンディーズの作曲家の穂口雄右さんもよ くいらっしゃって、そういった环境下で、音楽业界で働いている人の日常をなんとなく 肌で感じていたのかもしれないですね。 ──そんな小さい顷からのお付き合いでしたか。お父さんのお友达ということですね。 与田:そうですね。松崎さんは常连でした(笑)。 ──その顷、松崎さんはまだミュージシャンだったんですか? 与田:いえ、渡辺プロダクションでキャンディーズやアン・ルイスさんとかをやられて いたんじゃないですかね。仆が中学くらいの顷「バンドとかやっているみたいなのよ」 って母亲が松崎さんに言ったら、「じゃあ俺のギターあげるよ」ってエレキギターをい ただいたりとか、今でもそうなんですけど、兄贵って感じですね。 ──音楽业界の関系者は出入りしていたけども、音楽的とも言えない环境だった? 与田:どうでしょうね。みなさん打ち合わせと称して来るんですけど、ご饭を食べた後 は麻雀になるのがいつものパターンでした。でも、仕事の话もしていましたけどね。内 藤やす子さんの『弟よ』という曲があって、最初は「(イーグルスの)『ホテル・カリ フォルニア』っぽくしよう」と话しているのが闻こえて、でき上がって『弟よ』を聴い てみたら「全然违うじゃん!」って思ったんですけど(笑)、よくよく聴いてみると、『 ホテル・カリフォルニア』のエッセンスが入っているんですよ。そういうことがすごく 面白いなと思って。魔法というか、ちょっとしたきっかけからアイデアを引き出してい って、全く违うものを作っていく面白さというのは、混沌とした家庭の中に散らばって いたと思うんですよね。 ──お父様のプロフィールも拝见したんですが、知らない曲がないってくらい有名な曲 をたくさん作られていますよね。松崎さんが所属していたアウト・キャストの『爱なき 夜明け』も作词はお父様ですね。 与田:仆が生まれた67年顷が一番のピークでしたね。例えば、松崎さんにしてもそうで すし、ケイダッシュの川村会长もブルーコメッツのマネージメントをされていたので繋 がりがあったり、あと、ヴィレッジ・シンガーズの小松さんも、その後ソニーのディレ クターになってからは、内藤やす子さんやTUBEをやっていましたよね。グループ・サウ ンズ时代にアーティストだった方たちがレコード会社やプロダクションにたくさんいら っしゃるので、そういう意味で多少アドバンテージになっているところがあるのかなっ て思いますね。 ただ、二世っぽい感じでやるのも嫌だなと思っていたので、そういった环境に抵抗する 気持ちもありました。もちろん仕事上では松崎さんを始め、みなさん远くから见守って くださっているのが非常にありがたいと言いますか、非常に恵まれた状态ではあると思 いますね。 2. シンセサイザーで宅録の日々 ──与田さんが音楽に目覚めたのはいつ顷ですか? 与田:作曲家の方ですと家に色々な楽器があったり、ミュージシャンが集まったりする んでしょうけど、うちの父亲は作词家だったので、特にそういう环境ではなかったんで す。ただ、狭いリビングにパラゴンというJBLのすごく大きいスピーカーがあって、父 亲がいつも朝からガンガンにレコードかけていたんですね。ですから、当时流行ってい た洋楽は子どもの顷からずっと聴いていて、车に乗ってもカセットでずっとかかってい ましたしね。そういう意味では音楽に溢れた家でしたし、音楽は好きでした。 ──与田さんは何か楽器をやっていたんですか? 与田:小さいときからピアノは习っていたんですが、练习するのが本当に嫌でした。そ れでも10年くらい通っていたんですよ。ピアノの先生のところへ行くと、先生と2台ピ アノ并べて练习するじゃないですか。そこで仆は寝ちゃうんですよ(笑)。できないし、 わかんなくて、バイエルを卒业するのに5年ぐらいかかったくらいで、一応弾けました けど全然ダメでしたね。 それで、中学2年のときに友达とバンドをやることになって、ピアノをやっていたから キーボード弾けるかもしれないと、「シンセサイザーを买ってほしいんだけど」と父亲 にお愿いして、当时発売されたばかりのDX7を买ってもらって、それをずーっといじっ ていたんですね。でも、DX7っていわゆるツマミがあったりするキーボードじゃなくて 、非常に新しいシンセサイザーだったので使い方がいまいちわかりませんでした。それ で高校に入ってすぐくらいのときに「もっとツマミがついている、モジュレートできる シンセサイザーを弾いてみたい」と言ったら、当时、家に出入りしていたメロディーパ ークの福塚さんという方が「春ちゃん、ウチにおいでよ。転がっているよ、シンセサイ ザー」って言うんですよ。で、お邪魔したら、もうゴミみたいに置いてあるんです。そ れで「弄ってみたいから持って帰っていいですか?」と(笑)。それはオーバーハイムの OBXaってシンセだったと思います。 ──高级品ですよね。スティックも付いているやつですか? 与田:ジョイスティックも付いていました。その当时でいう、ヴァンヘイレンの『ジャ ンプ』の音なんですよ。それで「『ジャンプ』の音出るじゃん」と家で弾いていたら、 今度それを録音してみたくなって、お年玉で4トラックのカセットマルチレコーダーを 买って、録音するようになりました。そうこうしているうちに、MIDIとともに安いシー ケンサーが出始めて、夜な夜な自分の部屋でケーブル繋いで(笑)。 ──高校时代にそんなことをされていたんですか。早いですよね。 与田:ええ。それで、4チャンネルしかないし、こっちのシンセは4つしか音が出ないし 、こっちのシンセは8つしか音が出ないし、じゃあこれをスプリットして、これをベー スにしてとかを自分でやっていたんですよ。で、これは1回録ってピンポンして、ライ ブで弾きながらピンポンして、もう1回戻してっていうのをやっていて。それが今すご く役に立っています。谁に教わったわけでもないんですけど、好きだったんでしょうね 。 ──まだ『サウンド&レコーディング』とか、そういう本もない时代ですよね。 与田:ないですね。そうこうしていたら、福塚さんが血相変えて家に来て「ごめん。そ のオーバーハイム、信吾のやつだったから返して」って言われて。小林信吾さんのシン セだったんですね(笑)。多分、尾崎亜美さんのバックで弾いていたんだと思うんですけ ど。 ──贳えたわけじゃなかったんですね。 与田:もう、もらったものだと思っていたら、持って帰られちゃって。それで、自分で いろいろ研究して买ってみようと思って、ヤマハのQX5というシーケンサーとかRXとい うドラムマシンを家で并べてバチバチ叩いたりしていましたね。时々、作家の方とかト ラックメイカーの方が「何やっているの?」と仆の部屋に乗り込んで来て、教えてくれ たり。それが中学・高校生くらいでした。 ──バンドではオリジナル曲を作っていたんですか? 与田:作っていました。それで、高校の最後ぐらいかな? バンドのリーダーがポリド ールにテープを送ったら呼ばれたから、レコーディングに行くぞと。それでDX7を抱え て池尻大桥のポリドールに行って、4、5曲録ったんですが、そのまま何も无く终わっち ゃったんですけど、この业界にまた入ってから、当时の担当者だった内田さんという加 藤和彦さんのマネージャーをやっていた方に再会して、「与田くんって、こういうこと やってなかった?」「あのときいたのって内田さんですか?!」って、妙な繋がりがあ ったりしましたね。 3. 「楽しいこともあるけど、きちんとしている」レコード会社への就职活动 ──やはり将来は音楽の仕事に就こうと考えられていましたか? 与田:うちの父亲もそうなんですけど、やはりすごく波があるなとは思っていました。 结果的にみんな一生の仕事になっていますけど、何十年もこの仕事で生きていくのは大 変だなって思ったんですよね。 ──桥本淳さんでも波を感じられた? 与田:ええ。その当时、忙しいときは1日に3~4曲词を书いていたんですね。で、ディ レクターがリビングでコーヒーを何杯も饮みながら词ができあがるのを待っていて、父 亲が寝室で书いているんですが、ときどき様子を见に行くと寝ていたりして、「大丈夫 なのかなあ」と思ったり。そういうハードなときもあれば「うちの父亲、昼顷起きて何 か食べて、寝て、麻雀して、一体どうなっているんだろう?」みたいなときもあるわけ です。子どもながらに分からなかったですね。 ──友达のお父さんとはちょっと违うと。 与田:父亲のドタバタした日常を见て、楽しそうと思う反面、毎日コツコツ仕事をする とか、ちゃんとしないといけないんじゃないか? と思う自分もいて、その両方がある 、つまり楽しいこともあるけど、きちんとしていると思ったのがレコード会社の人だっ たんですね。音楽の仕事をしているけど、彼らはサラリーマンとして勤めているので( 笑)。 ──毎月决まったお给料ももらえますしね。 与田:そうそう。あと、うちの父亲は歌词に対して色々话し合っているんだけど、最终 的にそれを决めているのは、大体レコード会社の人だなって気づいたんですよね。「じ ゃあ、それをお愿いします」「それは结构です」というジャッジですよね。いつも「桥 本先生お愿いします」とか言っているけど、结局この人が决めているんだなっていう( 笑)。でも、就职について全然深く考えていなくて、みんな就职活动していたんですが 、身が入らずにダラダラしていて。 ──大学はどちらだったんですか。 与田:青山学院です。それで就职するなら、やはりレコード会社なのかもしれないなと 思って、よく家に来ていた中で一番頼りにしていた饭田久彦さんのところに行ったんで すね。ビクターに入れてもらおうと思って(笑)。もう就职活动が後半くらいだったので ギリギリだったんですけど。 ──亲を通さないでご自分で饭田さんにコンタクトを取られたんですか? 与田:家の电话帐で饭田さんの电话番号调べてかけたと思います。そうしたら「原宿の ビクターにいらっしゃい」って言われて、「なんとかお愿いします」って言ったら、饭 田さんが手帐を开いて、「桥本さんの倅が就职したいって言っているので话を闻いてあ げてくれます?」と电话をし始めて、ビクターの话かと思ったのに「あれ、回されてい る?」と(笑)。そうしたら、饭田さんが「春生ちゃんはうちの会社っぽくないからソニ ー行きなよ」って、そのとき绍介していただいたのが酒井政利さんだったんですよ。 ──酒井さんもご実家には来ていたんですか? 与田:ええ。よくいらっしゃっていて、父亲からは「レコード业界で一番手强い人だか ら、いつも礼仪正しくしろ」って言われていたので、すごく恐い人なイメージがありま した。それで、饭田さんから「今から市ヶ谷行きなさい」と言われて、ドキドキしなが ら黒ビルへ行ったんです。あのとき、4阶か5阶のフロアのど真ん中にガラス贴りの部屋 があって、そこが酒井さんの部屋だったんですよ。酒井制作室。それで入って行ったら 真ん中にでっかい机があって、そこに酒井さんが座ってらっしゃいました。でも、白い シャツにネクタイをされていて「キチンとした格好をされた方だな」と思って、「与田 です」と挨拶をしたら「どうぞ入りなさい」と言いながら立った酒井さんのズボンがヒ ョウ柄だったんです。「こりゃまずい。これはすごいところに来てしまった」とびっく りしちゃって(笑)。 ──(笑)。 与田:酒井さんは「すさまじい切れ味の人」と筒美京平さんからもお闻きしていました し、これはきちんとしなければと改めて思いました。それで酒井さんに「今、就职活动 してます」と话したら、「とりあえず入社试験を受けなさい」と言われて、酒井さんに 言われたまま受けたんですよ。それでだんだん面接が进んでいくうちに、仆が受けてい るところがソニークリエイティブという会社だと気づくんですね。その会社はキャラク ターとかグッズとかそういうものを売っているところだったので、「话が违うな」と思 っていたんですが、ご绍介で受けているので言い出せず、最终面接が终わって、ソニー クリエイティブに入ることになったんですね。 当时、人事部长だった岸栄司さんのところに面谈へ行ったときに、「実は音楽がやりた いんですが、この会社でも将来的に音楽の仕事へ行く道はあるんでしょうか?」と闻い たら、「与田くん、君はいろいろしがらみがあるから、音楽の世界には行かないほうが いい。ここで顽张ってみなさい」と言われて。なるほど、そういう考え方もあるかと思 って、それで2年间ソニークリエイティブにいたんですね。 ──岸さんのアドバイスもごもっともですよね。 与田:そうですね。これは今まで谁にも言ったことがないんですが、当时120人くらい CBSソニーに入っているんですが、そのうちの1人の女性と付き合うようになったんです ね。そしたら、CBSソニーは同じ职场で付き合うことを认めていない、一人を転勤させ る、という话になって「与田、大阪に行け」と言われたんです。それがどうも纳得いか なくて「じゃあ辞めます」と啖呵を切っちゃったんです。でも色々な方々にお世话にな って入った会社ですから、筋を通さなければと思って、饭田さんのところへ行って「大 変申し訳ありません。こういう结论になってしまいました」と头を下げて、ついてはビ クターに入れてくれないか? と再度お愿いしたんです。 4. BMGジャパン入社~ライジングプロダクションとの怒涛の日々 ──饭田さんにもう一度お愿いされたんですか。 与田:はい。そうしたら、饭田さんがまた手帐を出して「ここに行きなさい」って言わ れたのがBMGビクターだったんです。それでBMGに行ったら、田渊治さんという方と佐藤 裕一さんという制作部长の方がいらっしゃって「いろいろ闻いているよ。とりあえず、 うちに来い」と言ってくださったんです。 で、「最初は営业とか宣伝とかをやるんだけど、お前は何をやりたいんだ?」と闻かれ たので、「やっぱり制作セクションで仕事したいです」「経験あるのか?」「ありませ ん」って言ったら、「とりあえずそこに座って见ていろ」と、制作业务课というディレ クターたちのバックアップをする部署に配属されて、编成表やレーベルコピーを作った り、商品计画にマスター纳品のスケジュール管理などをやっていたんです。その当时、 ディレクターとか会社に全く来ないんですよ。制作の大きな部屋の一番向こうに佐藤さ んが部长で座っていて、そこに制作业务课の仆も含めて3人がいるだけで、ガラーンと しているんですね。 ──みんな出払っていると。 与田:でも、部长のところに色々なところから「こういう子がいるんだけど见てくれな いか?」とか、「こういうグループを编成しないか?」とか电话が来るんですね。普通 、そういうときは部长がディレクターを指名して「お前ちょっと行ってこい」となるん ですが、とにかくディレクターが全然いない会社だったので、いつも「与田、行ってこ い」って言われて、突然スタジオに行って、ちょこんと座って见ているみたいな(笑)。 そのうちに「お前が担当しろ」と言われるんですが、担当と言われても业务课ですから 「ディレクターじゃないのにいいんですか?」って闻いたら「いいんだよ、そんなの! 」って言われて(笑)、企画ものや単発ものを担当するようになりました。それで编成会 议に出たら「お前、编成会议で何か出すの?」って笑われたりしました。一番若かった ので、先辈たちにいじられながらよちよち歩きで始めたのが24、5の顷です。 その一年後ぐらいにやっぱり、「与田、お前ちょっと来い。この人に会って来い」と名 刺を渡されて、行った先が平社长のところでした。平社长は荻野目洋子さんのマネージ メントを通じてビクター系と太い繋がりがあって、その流れで観月ありささんのドラマ 主题歌に新人を起用してBMGで出さないか? という话で、そこから3年ぐらいもうずっ とライジングプロダクションに通うようになりました。この期间に初めて自分が関わっ たヒットというものを経験させて顶きました。 ──それはどなたですか? 与田:藤川贤一くんっていうシンガーと、ZEROという兄弟のユニットを担当させて顶き ました。制作にいる以上、何かヒットが出ないと周りの人たちに顔向けができないなと 思っていたんですよね。それが最初の仕事で、とにかく大変でしたね。ライジングプロ ダクションの方全员がいいと言っていても、平社长がOKしないと进まないんですよね。 これは今でも役に立っていますけど、结局社长を説得出来ないと1ミリも前に进まない ということを嫌というほど学びました。いくら社长にこういう风に説明して、これで落 とし込もうと话し合っていても「いや、それは违う」と言われたら、结局変えなくては いけないんです。明日の朝9时に音源を工场に入れないと発売延期だと言われているの に、7时ぐらいまでスタジオにいるみたいな(笑)。そういう経験を何度もしました。 ──大変な経験をなさってきたんですね…。 与田:でも、平社长のことを嫌だと思ったことは1回もないですね。 ──平社长の判断はやはり毎回正しいんですか? 与田:いや、全てが正しいかはわかりませんが、とにかく自分のタレントに対して爱情 が溢れているんですよね。その情热には圧倒されましたし、「もう立ち上がれない」み たいなことは何回もありましたけど、辛いと思ったことは一回もないんですよね。「な んでここに『爱してる』って言叶が入らないんだ!」「いや、社长そこ2拍しかないで すから」みたいなやり取りも楽しい思い出です(笑)。 あと、社长にミックスのOKをとらないといけないので、夜、社长を探すんですが、どこ かへ饮みに行っちゃっていないんですよ。で、社长の运転手さんに电话して「今どちら ですか?」と店を闻いて、DATウォークマンとソニーのMDR-Z900という一番大きなヘッ ドフォンを持って行くんですよ。それで「社长聴いて下さい!」ってヘッドフォンをガ バッと挂けて、音楽をヴォリュームマックスでかけるんですが、大抵夜中だし饮んでる しで、聴いているうちに寝ちゃうんですよ。「やばい寝ちゃってる…」「どうする? 曲终わってるじゃん」って(笑)。「いや、ミックスがOKだから寝ちゃったんじゃないか ?」と平社长を起こして「社长どうでしたか?」って闻くと、「う~ん、歌が小さいな 」って言うんですよ(笑)。「…わかりました」ってまたスタジオに戻って作业している うちに朝日が昇ってくるみたいな。 ──お话を伺っているだけで疲れちゃいますね…。 与田:それで始発で工场に行くみたいな。そんな生活を2年か3年くらいやっていました ね。 ──BMGから给料もらいながらも、実际はライジングプロダクションにずっといたんで すか? 与田:いや、BMGにも行っていましたね。会社へ行って、平さんのところに行って、そ の间に他の担当アーティストの仕事もやっていました。当时ライジングプロダクション の原盘ディレクターとして入っていた榊原さんや、マネージメントの竹村さんや小林さ んとかたくさんの方がいたんですが、本当みんないい人たちで、その顷が一番楽しかっ たかもしれませんね。みんな24时间体制で仕事をしている状态なので、躁状态というか 、すごく大変なことが起こっても、みんなガハガハ笑いとばしちゃうような现场だった んですよ。あの経験が未だに役に立っています。「やばい、これどうしよう」じゃなく て「それどうすんのー(笑)」みたいな。 ──深刻に受け止めるんじゃなくて、どんなときもポジティブなノリに受け止める(笑) 。 与田:そう(笑)、ナチュラルハイな状态ですよね。実家に来ていたレコード会社の方々 はヒットをたくさん出していた人たちばかりでしたが、やっぱりイケイケな感じだった ので、そういう雰囲気はわかっていたんですが、自分がレコード会社で仕事をし始める と、常に「もし结果が出なかったときどうしよう」って思っちゃうんですよね。だから 、シャカリキでした。普通のディレクターの人たちがヒット出したいって気持ちより、 3倍くらい强かったと思います。そうじゃないと耻ずかしいと思っていたんですね。 父亲がまた猛獣みたいな人间なので。まず、仆に対しては「お前は何の才能もない。も う辞めた方が良い」という気持ちが大前提にあるので、とにかく、仆のことは褒めない んですね。お前は何にもわかってない、だからお前はヒットも作れないし、才能もない 、と。 ──そんな厳しいことを言われちゃうんですか…。 与田:逆にいうと、破天荒な人たちに対して、父亲で免疫がついていたかもしれないで すね。 5. 自分で立ち上げたもので売れたい~MISIAとの运命的な出会い ──BMGには何年いらっしゃったんですか? 与田:8年ちょっとくらいだと思います。结局、平社长との3年くらいで、ヒットを恵ん でいただいたようなところがあるんですが、やはり自分で何か立ち上げたもので売れな いと、父亲を见返すことはできないなと思ったんですよね。 ──やはりそういう意味でお父様の存在はバネになったんですね。 与田:父亲を见返したいというのはありますよね。父亲は确かにたくさん曲も书いてい ますし、才能もあると思いますが、时代も违いますし、一番良い时代にごくごく限られ た作家の中でやっているので恵まれていた部分もある、とその両方を分かっているんで すけど、全然违う角度で、どこか「お前良くやったな」と言わせたいという想いは常に ありましたね。 ──なるほど。 与田:そのときに「自分でやりたいなと思うことをやろう」と始めたのが、MISIAのプ ロジェクトだったんです。 ──MISIAとはどうやって出会われたんですか? 与田:その当时、BMG社长の佐藤修さんとフォーライフの後藤由多加さんがとても仲が 良かったんですね。フォーライフは长渕刚さんや井上阳水さんなど、九州の方が结构多 くて、九州でもう一回才能を発掘しようと、BMGと共同で、九州の色々な県の駅で「駅 から始まるオーディション」というオーディションをやったんです。それでBMGとフォ ーライフのディレクター20人くらいが毎周末に九州へ出张して、オーディションをやっ たんですけど、毎晩呑んじゃって、もう灭茶苦茶になっちゃったんですよね(笑)。 ──(笑)。 与田:それを3年くらいやって、なかなか结果が出ずに、翌年にスポンサーが降りて中 止ということになったんですね。「毎年の楽しみだったのに残念だな」とか言っていた ら、九州の福冈でオーディションを主催していたプロデューサーの方が、「駅から始ま るオーディション」という名前を使って学校をやることになって、タレント养成学校み たいなのを始めたんですね。それで、生徒がたくさん集まったからショーケースをやる ので、当时のフォーライフとBMGの人を连れて観に来てくださいと案内が来たんです。 当时は、まあ今もそうですけど、歌が上手いというよりも、ルックス重视の子ばっかり 出てくるんですが、なんか1人だけ「えっ? この子何?」みたいな子が出て来て、パッ と歌ったら、灭茶苦茶歌が良かったんです。今までこういうタイプの子はいなかったし 、ちょっとトライしてみたいなと思って、それで本人に声をかけて、その、プロデュー サーの方に「この子、仆が担当して良い?」と言ったら「いいよいいよ、どんどんやっ て」と。要するに周りの人たちはもう全然目もくれないんですよ。 ──谁も目にくれなかった、その子がのちのMISIAですか? 与田:はい。彼女に対して「君の歌はダメだ」って、すごく辛辣なことを言う人もいた んですよ。仆は「こんなすごい歌、聴いたことない」と思っていたので、「なんでだろ う?」と思って。それで仆は彼女に「そんなことないよ、すごく良かったと思うから一 绪にやろうよ」と诱ったんですよね。でも、BMGに戻って、会社の中で「仆がやろうと 思っている新人がいるんだけど、みんな见て」って、宣伝とか営业とかがいたときに、 制作フロアにあったテレビで、オーディションのときに歌っていたビデオをかけたんで すよ。そのビデオを见ながら「やっぱりすごいな」と思って、「これ良いでしょ?」っ てパッと振り返ったら、谁もいなかったんですよね(笑)。 ──そんな状况だったんですか…。 与田:それから、现所属事务所リズメディアの谷川くんでさえも初めは「ちょっと良さ が分からない」と言うんですよ(笑)。 ──オーディションのときは、やはりR&B系の歌を歌ったんですか? 与田:そのオーディションのときにはドリカムの『Goodbye, Darlin'』を歌ったんです ね。自分としては「すごい」と思っているのに、本当に反応が悪いんですよ。りぼんの 奥田义行さんにもBMGにいらしたときに聴かせたら、「あんまりこういうの、のめり込 まない方が良いよ」とか言われて、こんなに反応悪いんだと。でも、平さんのプロジェ クトほど大きいわけでもないし、自分の裁量の中でやり続けていれば、いずれ同じ感覚 の人と必ず出会うだろうと、ひっそり始めたんです。そうこうしている内に、预けてい たリズメディアに出入りしているDJやダンサーから「この子いいっすね」とだんだん言 ってもらえるようになったんです。 ──世界が违ったのでしょうか? 与田:今もそうですけど、レコード会社とかプロダクションとか、限られたコミュニテ ィの中での「良い悪い」ということと、マーケットとの间には必ず隙间がありますし、 よく分からないというものがポーンと売れると、ちょっと手を焼くじゃないですか。そ ういうものだったのかな、という感じはしますね。その後、最初のアルバムがヒットし た时に、奥田さんが自宅に花を赠って下さり、とても嬉しかった事を记忆しています( 笑)。 6. これが売れなかったらもうダメなんじゃないか?~『つつみ込むように…』の手応 ──MISIAというネーミングはどこからつけられたんですか? 与田:本名を出すのも何ですし、何かちょっとニックネームをつけたいなと思っていた ところ、作曲をお愿いしていた佐々木润さんが、自分の作っていた曲のテープに彼女の 本名を捩って「ミーシャちゃんへ」と书いていて、「ミーシャって名前良いんじゃない ?」と。でも「ミーシャ」という响きは良いけど、MISHIAだったかな? そんなスペル で据わりが良くないなと思ったんです。そうしたら谷川くんが「与田さん、やっぱりア ジアとか行きたいよね」と言って、「アジア良いねえ…あ、“sia"って缀り良いな」と 。それで、家のCD棚を见ていたらバーシア(Basia)の名前が目に入って、やっぱりバ ーシアも”sia”なんですね。 ──“h"がないんですね。 与田:そうそう。「MISIA」としたら“I"と“I"がシンメトリーになるし、これが良い んじゃないかなと思いました。本人はこちらの提案を割と素直に受け入れてくれるタイ プの子なので、「この名前でいきたいんだけど」と伝えたら「分かりました」という感 じでした。 あとタイアップとか、テレビとかは全部やめて、特に彼女の声で売りたいという気持ち があったので、ヴィジュアルを出さない方が良いんじゃないかと话し合いました。その 年、BMGの担当プロモーターだった柳田さんと、やっぱりJ-waveでかけて欲しいからプ ロモーションしましょうよと言ったら、当时、编成局长だった斎藤日出夫さんが会って 下さって、今でも覚えているんですが、J-waveの大きな会议室へ行って、斉藤さんの前 でコンポみたいなもので、『つつみ込むように…』と、そのカップリングの『Never gonna cry!』をかけて、黙ってずっと聴いていました。それで、曲が终わって何か言う かなと思ったら、「これ来周からかけましょう」と。もう、それで终わりだったんです よね。一瞬の出来事でしたが、大きなターニングポイントでしたね。 ──即决ですね。 与田:そうしたら、本当に次の周からバンバンJ-waveでかかりました。あと、さっき言 ったヒップホップ系のDJとかが気に入ってくれたり。だから、特にしゃかりきになって 何かをやったというのはなかったんですよ。タイアップも结果的にあったんですが、そ れよりもクラブとか、ディスコ、DJ、ダンサーのストリートカルチャーの中にスッと入 っていったのと、J-waveとかいくつかの放送局でどんどん曲をかけてもらって、本当に ピンポイントでスイッチが入ったという感じでしたね。 ──もう音源だけで胜负できたということですね。 与田:そうですね。『つつみ込むように…』をスタジオで作っているときに、「これが 売れなかったらもうダメなんじゃないか?」ってみんなが思っていましたからね。何と 言うのかな…「これが売れないんだったら、もうこの国がダメなんじゃないか?」くら いに本気で思っていました。仆たちはスタジオでずっと、あーでもない、こーでもない とやり続けながら少しずつ积み上げていたんですが、小さなものを积み上げているから よく分からないんだけど、気づいたらすごく高い山になっていたりすることって意外と あるんじゃないかなと思うんですね。 ──『つつみ込むように…』の作词・作曲はどなただったんですか? 与田:ずっと一绪にやっていた岛野聡くんの作品ですが、ずっと寝かせていた曲だった んですね。それをちょっと出してみようということだったと思います。最初『つつみ込 むように…』はアナログ盘をちょっと流通させてみたんですが、それがすぐに无くなっ て、「MISIAのアナログ盘をどうやったら手に入れられるんだ?」とか话题になったん ですよ。でも、それにはちょっと里があって、ニューヨークに有名なプレス工场があり まして、ニューヨークへ行ったときに、そこでプレスしようということになりました。 それでお金を払ってプレスをして、それを日本に输入する形を取ったんですけど、商品 ができて出荷した直後に、テスト盘を确认したらセンターの穴がズレていて、かなりの パーセンテージで针飞びするんですよ。 ──プレスミスですね。 与田:これは出荷できないでしょうと。それですぐ东洋化成さんでプレスし直して、再 出荷するか、全部回収しなきゃダメだと言って、出荷した瞬间、回収したんです。それ で手に入らなくて、プレミアが付いたんですよね(笑)。 ──その不良品が今、プレミアになっているんですか?(笑) 与田:多分出荷して、即买った人もいると思うんですよ。それで、回収すると言っても 、戻さなかった店も结构あると思うので。 ──不幸中の幸いと言いますか、逆に宣伝効果が上がっちゃったんじゃないですか? 与田:そうなんですかねえ。何気に、怪我の功名みたいことがいくつか重なってはいま すね。 ──MISIA『つつみ込むように…』の大ヒットで与田さんの社内における评価は高まっ たんじゃないですか? 与田:どうなんですかね。最初、仆が作っている曲とか音に対して、谁も何も言わなか ったんです。「へー」って言っていただけなんですけど。でもヒットした途端に「こう いう曲をやった方が良いんじゃないか?」とかみんな色々言ってくるわけですよ。 ──见向きもしなかった人がいきなりアドバイスしてくるわけですね(笑)。 与田:してきますね。エーッと思って(笑)。 ──(笑)。お父さんの反応はどうでしたか? 与田:父亲は「お前は俺の子供だったことを感谢した方が良い」と言っていましたね( 笑)。「俺の才能がお前に少しあるだけで、それはお前のものじゃない」みたいな(笑) 。 ──すごい言い方ですね(笑)。でも、本心では喜んでくれたんでしょうね。 与田:もちろん喜んだと思います。父亲は「色々な人に头を下げて、仕事を取りに行け ば、何かやらせて贳えるだろう。そうやってヒットを取ってくれば良いじゃねえか」と よく言っていたんですが、仆はそういう风にはしてこなかったですし、その姿势を守る 中でMISIAのヒットが出たので、なんとなく上手くおさまったかなという感じですよね 。 7. 一千万のボーナスをきっかけに独立してユニバーソウル设立 ──BMGジャパンを辞められるきっかけは何だったんですか? 与田:当时の上司のジャック松村さんはアメリカ帰りの人で、ソニーレコード・アメリ カの社长だったんですね。それで「こういう仕事はやっぱりインセンティブだ。与田、 お前にはボーナスを出す」と言われて、「おお、嬉しいです。最高です」と言っていた ら、99年の年末ですかね、突然一千万のボーナスが振り込まれたんです。 ──一千万ですか! 与田:まだ31くらいだったので「ええー!」と思って。给料明细が2枚だったんですよ ね。1枚に500万円までしか书けないから(笑)。 ──(笑)。 与田:そうしたら総务の人に「与田さん、来年の住民税大変なので、注意してください ね」と言われたんですね。その当时、自分は30万くらいの月给でしたが「来年は住民税 だけで毎月15万円くらいになっちゃうかもしれない」と言われて、それじゃあ食ってい けないので「じゃあ、给料上げてくださいよ!」とジャックさんに言ったら、「与田、 それはできない」と言われて(笑)。そうしたら谷川くんが「与田さん、独立しちゃえば 良いじゃない?」と。それで、今の会社(ユニバーソウル)を作ったんですよ。 ──独立は谷川さんのアドバイスなんですね。 与田:そうです。みんなから何となく「独立しちゃえよ」と无责任に言われて、「そう かなー」みたいに思って。だから大谷英彦くんとか、ソニーに入った同期はみんな出世 して、今はレコード会社のエグゼクティブになっているんですが、仆は「なんか失败し たな…」という気持ちはありますね…。 ──いやいや、そんなことないでしょう! 与田:ただ、酒井政利さんじゃないですが、仆も现场というかスタジオが好きなんです ね。ディレクターとか、芸能ラウンジ的な世界も嫌いじゃないんですけど、やっぱり元 を正すと、家で「この音はどうやったら録れるのかな?」とケーブルを繋いだりしてい たのがルーツなので、根本的にはスタジオにいて実験しているのが好きなんです。そう いう意味では独立して良かったかなとは思いますけどね。 ──普段もこのスタジオにいらっしゃるんですか? 与田:ほぼいますね。打ち合わせも全员スタジオに呼んで、ここでやっています(笑)。 ──このスタジオを作ったのは独立と同じ时期なんですか? 与田:そうです。例のボーナス一千万と、MISIAの印税も少し入っていたので、それで スタジオを作りました。 ──本当にスタジオがお好きなんですね。 与田:スタジオ大好きですね。スタジオって、レストランで言えば厨房みたいなもので 、厨房がなかったら食べ物が出ないじゃないですか? だから、音楽にとってスタジオ が一番大事なんじゃないかなと思いますけどね。 ──今も自分で音を作ってらっしゃるんですか? 与田:いえ、そこは割り切っていて、仆は司令塔的な感じと言いますか、作曲、作词、 アレンジ、ミュージシャン、歌手、そういった人たちをまとめる役目に彻しています。 ──エンジニアリングは? 与田:もちろん、ずっと一绪にやっているエンジニアはいるんですが、今はほとんど自 分でやっています。 ──歌入れもご自分でなさっている? 与田:ええ。歌入れは自分でやれるのが一番良いと思いますね。やっぱりProToolsって 革命的な机材で、音が画で见えるって大事件じゃないですか。「この音なんだっけ?」 というのが全部画に出るという。だから、基本的に谁でもできるんですよね。あと歌の エディットなんかも昔は歌词カードを见ながらセレクターでやっていましたが、 ProToolsでやると圧倒的に早いですからね。歌のつなぎとか、歌録りのテクニックは独 学ですが、何の根拠もない自信はあります(笑)。 ──このスタジオでMISIAもAIも加藤ミリヤも、みんな歌っているんですか? 与田:歌っています。今乗っけている47(NEUMANN U47)というマイクはビートルズも 使っていたマイクで、オリジナルに近い状态であるのはなかなかないと思います。これ 、シリアルが138番という47なんですが、この状态のものは多分日本に3本とないと思い ます。MISIAはずっとこのマイクで録っていました。 ──このスタジオは闭塞感が无くて、すごく居心地がよいですね。 与田:ありがとうございます。アメリカのスタジオに行くと、植物があったり、窓から 明かりが差していたり、楽しい気分になるじゃないですか。でも、日本のスタジオはそ ういった雰囲気が出ないところが多かったので、自分のスタジオはアメリカのスタジオ のように游びたいなと思っていたんです。ちなみにこのテーブルは実家から持って来た やつで、みんなで麻雀していたテーブルです。この上で「ロン!」とかやっていたとい う(笑)。 ──歴史を観てきた麻雀卓ですね。 与田:そうです。それと今ラージで流しているマーク・レヴィンソンのパワーアンプは 父亲が使っていたやつを拝借してきました(笑)。これももう40年くらい前の机材ですね 。 ──40年ですか…すごい。この大きいスピーカーはどこのやつですか? 与田:これはPMCと言って、イギリスのスピーカーですね。ロンドンのスタジオへ行っ たときに、みんなこれを使っていて、すごく良い音だなと思ったんです。日本って小さ いスピーカーで聴く人が多いんですけど、海外に行くとみんなラージで聴いていますし 、仆もでかい音で聴きたいときはこのPMCで聴いています。 8. 『Everything』のミックスへのこだわり ──与田さんはやはり机材や音质へのこだわりは强いですか? 与田:はい。例えば、MISIAの『Everything』は、どうしてもジョージ・マッセンバー グにミックスしてもらいたくて依頼したんですね。彼はアース・ウィンド・アンド・フ ァイアーのアルバム『I Am』とか、いわゆるアースの全盛期のミックス・エンジニアで 、かつ、リンダ・ロンシュタットのプロデューサーなんですね。それで「サウンドをア ースみたいにして、歌をリンダ・ロンシュタットみたいにして欲しい」と言ってお愿い したんですよ(笑)。 ──それはゴージャスなオーダーですね(笑)。 与田:それで『Everything』はナッシュビルまで行ってトラックダウンしました。冨田 ラボの冨田恵一さんがアレンジだったので、彼と一绪にジョージのスタジオへ行ったら 、アナログな机械がブワーッと并んでいて、「すごいトラックダウンするんだろうねえ 」なんて话しながら、作业をするジョージの部屋に入ったら、ProToolsがポンと置いて あるだけで、他に何もないんですよ(笑)。それで冨田さんが「与田さん、これ手抜きな んじゃないかと思う。ちょっとジョージに讯いてくれ」と言うんです。それで、恐る恐 るジョージに「仆らはアナログのアウトボードがたくさん并んだスタジオで、あなたの 技术を见てみたいんだけど、これ(ProTools)で大丈夫なの?」と讯いたら、「何を言 っているんだ。今一番Hi-fiで最高のサウンドを作るのにはこれしかないだろう! そん な古い机材を并べてどうするんだ?」って言うんですよ(笑)。 ──(笑)。 与田:そうしたらまた冨田さんが「与田さん、モニターだけ10M(YAMAHA NS-10M)を借 りてくれないだろうか?」と言うので、「ジョージ、10Mでモニタリングしたいんだけ ど」と讯いたら、笑いながら「日本ではそういう音を望んでいるのか? Hi-fiでゴージ ャスなサウンドが欲しいじゃなかったのか?」と言われて、「确かにそうだな」と思っ て、冨田さんに「ジョージの言う通り、このままやろう」と伝えました。 ──ジョージ・マッセンバーグは2000年に弊社のスタジオに来たことがあるんですが、 Sony 3348を见て「もしかしてまだ使っているの? 絶灭したとばかり思っていた」と言 うんですよ。「そんなに音の悪いやつをまだ使っているのか」と(笑)。 与田:彼の脳内はすごい先に行っているんですよね(笑)。MISIAはその当时から色々な 人にミックスダウンしてもらいましたが、『Everything』はダントツで良い音だって MISIA本人が言っていましたからね。ミックスってヒットするかしないかには、直接的 にはそんな関系ないと思いますし、すごくたくさんお金も払い、时间も手间もたくさん かけましたけど、すごく良い作品に仕上げられましたから、やってよかったと今でも思 います。 ──与田さんはMISIA以降、様々なアーティストをプロデュースされていますね。 与田:プロデュースするケースって、いくつかのパターンがあると思うんですね。大き く分けると二つあって、一つは「こういう特色のあるタレントを与田さんなりに仕上げ てください」というプロデュース。つまり、今この冷蔵库に入っているもので美味しい ものを作ってほしいというケースと、自分で材料を买ってくるところからやってくれと いうケースがあると思うんです。 やっぱりMISIAというのは、人の冷蔵库の中身で料理を作るわけではなくて、自分で素 材を见つけてきて、自分で料理をしているアーティストですし、本质的にはそのプロデ ュース方法が仆には向いているんだと思います。もちろんAIちゃんや加藤ミリヤちゃん 、华原朋美ちゃん、その他にもたくさんプロデュースをさせて顶きましたが、そういう 仕事のときは、歌録りで工夫をしたり、今までやってなかったことを引き出したり、自 分なりに色々试みますが、実は仆の方が勉强させてもらっていることが多いんですね。 ──アーティストから教わっている? 与田:仆はそういう気持ちでいます。结局自分でゼロからやっているものと、例えば40 くらいまで来ているところからスタートするものでは违います。だから、AIちゃんなん かそうですが、「こういう风に歌ってくるんだ」とこちらが勉强させてもらっているよ うな感覚が多いです。MISIAやAIちゃんの仕事で得たノウハウは、今はアイドルものに 使われていたり、缲り返される中でだんだん形を変えていくものだと思いますし、最终 的には自分で见つけてきて、ゼロからやっているアーティストにフィードバックされて こないと意味がないと思っています。 ──今はどのようなアーティストをプロデュースされているんですか? 与田:今はBeverly(ビバリー)というフィリピンの子をやっています。知り合いの人 から「フィリピン人のシンガーの资料を预かっているから聴いてほしい」と頼まれたの で聴いてみたら、すごい歌を歌うのでビックリして、「すぐに会いに行きましょう!」 とフィリピンまで飞んで彼女に会いました。これはMISIA以来の冲撃で、何社かにお话 する中で、エイベックスの林さんと伊东さんが「これはすぐやろう」と言ってくれて、 彼女を日本へ呼んだんですが、ビザがなかなか取れなくて大変でした。 ──ビザがそんなに取れないんですか? 与田:兴行のビザってなかなか取れないんですね。そこから始めて约1年がかりで日本 に呼んで、今年のa-nationで日本での初舞台を踏みました。仆の场合は自分の感覚に合 う人を自分で见つけてきて、それをビジネスの形にするというのが本来の仕事だと思っ ています。だから、ディレクター时代も人がやっていたタレントを引き継ぐという経験 がないんですよね。よく、ディレクターが変わるとかあるじゃないですか。そういうの はメーカーで8年やってきて1回もないんですよね。それは良いのか悪いのか分からない ですけど。 ──珍しいですよね。大抵先辈から引き継いだりしますけど。 与田:そうなんですよね。でも、それってすごく难しいですよね。人がやってきている ものを否定するところから始めなきゃいけなかったりする要素もあると思いますしね。 そのままやっていれば良いのかというと、それじゃお前がやる意味がないだろうという ことになっちゃうしね。そういう意味では、自分でやっている方が、责任は非常に重い んですが、気持ち的には楽ですね。 9. 子供からお年寄りまで、あらゆる世代に向けた音楽を作りたい ──ちなみに与田さんは词を书かないんですか? 与田:词は嫌いなんですよね。 ──嫌いですか(笑)。 与田:これは父亲の影响かもしれないんですけどね。父亲の词は结构好きなんですよ。 父亲の词の特徴として、人が共感できるようなものではなくて、人が眺めているような 世界観を书く词が多いんですが、それ自体嫌いではないんです。词に関して、仆は音楽 の中で言叶がバンバン入ってくるとむしろ邪魔だと思っていて、サウンドや声とか色々 なものと混ざって1つの形になる方が良いと思っています。 よく、プロダクションとかレコード会社の方も「まず词を」という方が多いんですが、 词というのは「结果的に良いよね」というものであって、MISIAの曲なんかも、ほとん ど词で煮诘まったことはないんですよ。本人はもちろん煮诘まっていると思いますが、 全然ダメということはほとんどなくて、逆にできたものをどう良くするか? というこ との方が大事だと思います。 ──でも不思议ですよね。お父さんが作词家なのに(笑)。词を书くタイプじゃない? 与田:どうなんですかね。书けるのかな…。以前、父亲と酒井政利さんの话になって「 コンサートで郷ひろみが出て来た瞬间、ファンの子たちは高扬して热が上がってしまう んです。ですから“20才の微热"というタイトルですぐ词を书いてください」と酒井さ んが言ってきて『20才の微热』の词を书いたと。最初にタイトルを提示して、それです ぐ书けというのは结构すごいなあと思いましたが、そういうのは兴味がありますね。タ イトルから逆に词をイメージする。 ──酒井さんもすごいですし、それに応えるお父様もすごいですね。 与田:ですから、やるんだったら彻底してやりたいんですが、逆にそういうのを见てき ているので、若い人とかと词の谈义をすると、若干こっちの体温が下がってしまうんで すよね。 ──(笑)。 与田:レコード会社の人も今、スタジオの作业が减っているので、スタジオで何かをす るというよりは、会议室でできることをやる。となってくると限られてきて、どうして も词の话になっちゃうんです。「音楽的なことは分からないので、词の话をしても良い ですか?」という人も多くて(笑)、「词にそんな时间を费やしてどうするのかな?」と 思うんですよ。そこよりスネアの音色どうなの? という方が、结构大事だったりする こともあるじゃないですか。だから、词だけに限らず、あらゆることをバランス良くフ ォーカスできればと思います。 ──音楽を作っている以外のプライベートな时间っていうのはあるんですか? 与田:エイベックスの松浦さんのブログのタイトルがすごく良いなと思うんだけど、仕 事が游びで游びが仕事になっているんじゃないですかね。しびれる现场もありますけど 、ここにいて仕事して疲れるなと思ったことはないですね。だから、ほぼ游んでいるん だと思います。それで、何とか生き延びているんだから、幸せなんじゃないかなと思い ますけど(笑)。多分、あと10年くらいは仕事できるかな? と思っているんですけどね 。 ──いやいや、もっとできるんじゃないですか? 与田:でも、50歳とかになって、若い人に向けた音楽を作るというのは、かなりナンセ ンスだなと思いますけどね。 ──でもミック・ジャガーもポール・マッカートニーも70越えてバリバリじゃないです か(笑)。 与田:そうなんですけど、例えば、ポール・マッカートニーの新谱を中学生とか高校生 が聴くことはないじゃないですか。やはり、一绪に育ってきた世代に向けたものという か。そういう意味で、ある世代の人がある世代の人に向けて音楽を作る、つまり横に切 ったマーケットの时代に変わったのかもしれないですね。でも、仆は父亲とか松崎さん の世代の人たちのDNAを多少は持っているので、子供からお年寄りまで、あらゆる世代 に向けた音楽を作りたいという想いもあります。それがアイドルものとかでも良いんで すが、やはりアイドルはアイドルのファンに向かう部分が大きいので、本当の意味では 兴味は持てないですよね。 ──今は世代を越える存在がいないですよね。宇多田ヒカルさんくらいでしょうか。 与田:奇しくも平さんが言っていましたけど、宇多田ヒカルさんという存在は爆弾が落 ちたような冲撃だと。もう雑草も生えないと。焼け野原になってしまったと仰っていま したね。仆は宇多田ヒカルさんほどのものは作れないと思うんです。自分の思考范囲が 结构狭いですし、広く见て作っているわけではありませんから。でも、このスタジオで 、ここに居る人たちが聴いて「これはヤバイ!」と言えるものが作れれば、それが多く の人の心を打つと信じています。 ──本日はお忙しい中、ありがとうございました。与田さんの益々のご活跃をお祈りし ております。 -- https://www.facebook.com/MISIAsupporter MISIA 情报汇集应援专页 --



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