作者mewmi (这只是个代号)
看板hiro
标题[写真] Hiro - SPECIAL INTERVIEW
时间Sun Apr 19 07:51:45 2009
SPECIAL INTERVIEW
Play back Hiro's history!
决して平たんではなかった。
水嶋ヒロが22年间で歩んだ道を振り返る。
この世界は"出会い"と"运"
デビューしてから﹑あっという间に2年がたちました。この世界
って﹑本当に"出会い"と"运"だなって思います。モデルをしていた
仆に﹑「役者をやってみないか」と﹑今の事务所が声をかけてくれた
のも"出会い"だし"运"。それから﹑『ごくせん』でドラマデビューし
て﹑『ブラザー☆ビート』に出させてもらって﹑1年が过ぎた。この
ふたつのはドラマは﹑ほとんどセリフがない役だったのに﹑次のドラ
マが『仮面ライダーカブト』の主役。これも﹑すでにオーディション
は终わっていたのに﹑面接でプロデューサーの方にお会いしたら﹑
仆でいきたいと言ってくれて。これだって"出会い"だし"运"だっ
て言えるんじゃないのかなって思うんです。
でも﹑正直な话をしてしまうと﹑仆は子どもの顷をスイスで过ご
していたので﹑『仮面ライダー』っていうヒーローの存在をあまり
よく知らなくて﹑それがどのくらい大きな役なのかを実感できず
にいたんですね。役をいただけたことを知った事务所の人たちが﹑
ものすごく喜んでいるのを见て﹑なんでだろうって思っていたく
らいです(笑)。だけど﹑撮影を始めてみて﹑その意味がよくわかり
ました。そのぶんプレッシャーも大きくなったし﹑"俺様が一番"な
天道総司は﹑自分の中にまったくないキャラだったので﹑役作りも
一からの手さぐり状态でしたけど﹑役者を始めて2年目という年
にこの役ができたことは﹑自分にとってものすごく大きな财产に
なりました。そして﹑『仮面ライダーカブト』をやりながら映画『ラ
ブ★コン』に出られたことも﹑とても意味のあることだった。好き
な子の前でしょっちゅう鼻血を出しちゃうような三枚目キャラで﹑
天道総司と180は度违う役。同时期にふたつのまったく异なる
役を演じたことは﹑仆にとっていい勉强になりました。
小さな顷は﹑内気で泣き虫
人前で演技をする职业につくことになるなんて﹑小さな顷の自
分の性格からは想像もできないことです。もの心ついた顷の仆は﹑
とにかく泣き虫で﹑人が嫌いで﹑幼稚园も大嫌い。朝になると"おな
かが痛い""头が痛い"と仮病を使って﹑なんとか幼稚园を休もうと
するような子だったんです。普通は幼稚园の思い出っていうと﹑"远
足に行った"とか"お游戏をした"とかし楽しいもののはずじゃない
ですか。なのに仆には﹑ホントに泣いてるときの记忆しかないんで
す(笑)。教室の中にも入らずに﹑ひたすら家に帰りたくて园庭でひ
とり泣いている每日でした。走るのが速かったので﹑かけっこで1
位を取ったりすることも多かったんですけと﹑ゴールした後﹑みん
なかワーツと寄ってきた瞬间に泣いちゃったりとかしていたくら
いですから(笑)。家に帰ってきても﹑ひとりで游んでいるのが好き
な子でした。3つ上に姉がいるんですけど﹑あんまり仆にかまって
くれなかったので﹑マヨネーズ片手に﹑よくひとりで外に散歩に行
っていました。あの顷はマヨネーズが好物で﹑道に咲いてる花や草
木につけては﹑パクパク食べていたんです(笑)。
そんなに内気で人见知りだったのに﹑小学校入学直前に﹑亲父の
転勤で家族でスイスに行くことになったんです。亲父はもともと
社会人サッカーチームの选手だったんだけど﹑体を壊してやめて
そのときはもう普通の会社员だったんで転勤もあって。その発表
はあるとき﹑外食先の中华料理屋さんでなされたんですね。亲父が
珍しく﹑「今日は家族で中华を食べに行くぞ」って言ったから﹑仆も
姉ちゃんも大喜び。姉ちゃんなんか﹑「私﹑おなかいっぱ~い食べ
る」ってはしゃいで。仆は幼すきてあまりはっきりとは覚えていな
いから﹑これは後で亲父に闻いた话なんですけど﹑スイスに行くと
わかった姉ちゃんの目から一筋の泪が流れて﹑その日は中华を一
口も食べなかったそうです。家に帰ってソッコウふて寝して﹑亲父
にボソッと﹑「外人嫌い」って言ったって(笑)。仆は﹑大泣きしたん
だけど﹑おもちゃを买い与えたら﹑すぐに泣きやんだそうです(笑)
外国に行くってことの意味が﹑わかってなかったんでしょうね。
スイスで过ごした6年间
スイスには﹑小学校6年生を卒业するまでいました。住んでんた
のは﹑エーゲンバッハという街。山の斜面に家が建っているような
田舍で﹑ぶどう畑が一面に広がっているような﹑とても自然が豊か
なところでした。気がつくと﹑横を牛や马が歩いているような。东
京で生まれ育った仆にとっては﹑かなりのカルチャーショックで
した。日々の食事もぜんぜん合わなくて。小学校のお弁当に﹑母亲
がいつもおにぎりを持たせてくれるんだけど﹑日本のお米と违っ
て﹑パサパサしていてあんまりおいしくないんです。スイスの主食
は﹑じゃがいもやパンで﹑それにチーズやフルーツをそえて食べる
という习惯でした。日本と比べてしまうと全般的に食べ物はおい
しくないんですけど﹑チョコレートだけは本场なんで﹑とってもお
いしかった。あまりのおいしさに﹑每日チョコばっかり食べていた
ので﹑スイス时代の仆はかなりぽっちゃりしていました(笑)。
もうひとつ不安だったのは﹑"言叶"の问题でした。スイスの人た
ちはドイツ语を话すんですけど﹑通っていたインターナショナル
スクールでは﹑みんな英语を使っていたんです。ドイツ语はもちろ
ん﹑英语もまったくわからないから﹑学校で友达が笑って话しかけ
てきても﹑"何か悪口を言われてるんじゃないか"って﹑何でもネガ
ディブな方向に考えちゃって。みんなが话している言叶の内容が
わかるようになってきたのは﹑2年生の终わりくらいからですね。
それからは﹑だんだん学校生活も楽しくなっていきました。
でも﹑いろんな国の人间が集まれば﹑いろんな考え方をする人も
いる。仆が日本人という理由だけで嫌う人もいて。なぜかアメリカ
人に多かったんですけど﹑そういう感情ってたいていは亲から植
えつけられたものなんですよ﹑戦争のこととかいろいろあったの
かな。だけど﹑その顷の仆は﹑それか理解できなかったし﹑仆の持っ
ていったおやつを"日本人だから"という理由だけで食べてもらえ
なかったりするのが﹑すごくショックだった。子どもって纯真だか
ら﹑ひとりがそういうことをしだすと﹑その空気がどんどん他の子
たちにも伝染していくんですよね。小4のときに﹑クラスの友达の
财布がなくなるという事件が起きたんです。まっさきに犯人扱い
されたのが仆で。だけど﹑担任の先生だったミスター‧ラモントが
「彼はそんなヤツじゃない」って言ってくれました。结局犯人は别
にいて﹑误解がとけた瞬间﹑それがきっかけで仆の株が上がったん
です。そこからは﹑クラスの友达も仆に心を开いてくれるようにな
った。そして小6の卒业を目前に帰国することが决まって﹑卒业式
を终えた1周间後には﹑日本に帰国していました。
帰国して待ってたものは
帰ってきたらきたで﹑不安でしたよ。その顷は﹑日本语よりも英
语のほうが日常语になっていたし﹑ひらがなは読めても汉字はほ
とんど书なかったし。日本の学校はスイスの学校とはスタート
する时期がズレていたので﹑帰ってきてから中学に行くまでの半
年间は﹑日本の小学校に通いました。でも﹑そこでも轧轹が。まず先
生に「自己主张が强すぎる」って言われたんです。先生から烟たが
られて﹑それがクラスの友达にも伝わって﹑なんとなく仆を疎外す
る空気が生まれた。それでも前向きに学生生活に取り组んでいた
ら﹑小さいながらも体にストレスをため込みすぎて﹑あるとき39度
の热を出して倒れてしまったんです。病院で诊てもらったら﹑"精
神的なものだ"と诊断されて。"なんで仆の人生﹑いつもこうなっち
ゃうのかなあ"って﹑そのときしみじみと考えちゃいました。
中﹑高は﹑サッカーに梦中
中学は﹑受験して入りました。そこは中高一贯の学校で﹑サッカ
ーが强く﹑将来はプロになりたいという人たちが全国から集まっ
てくるような学校でした。仆は﹑帰国子女枠の受験ができたから入
ったんですけど﹑どうせなら﹑父が昔やっていたサッカーをやって
みようかなと思ったんです。入部がテストあったんですけと﹑受け
てみたら﹑たまたま受かっちゃって。入部希望者が大量にいたので﹑
その段阶で落ちてしまう人もいたくらいのレベルだったんですけ
ど﹑运もよかったんだと思います。仆がサッカー部に入れたことを﹑
谁よりも一番惊いていたのは﹑亲父でした。スイスにいた顷﹑亲父
は﹑仆があまりにも泣き虫だったんで"サッカーみたいなチームプ
レイは向いてないだろう"と﹑テニスをやらせてたくらいですから。
そのテニスは﹑あまりうまくなかったですけど(笑)。
そして﹑サッカー部に入ってはみたものの﹑そこからがまた大変
でした。日本には﹑先辈後辈という上下関系があるってことをまっ
たくわかってなかったし﹑敬语の使い方も知らなかった。入部した
ての顷﹑ある先辈がプレイをしているのを见て﹑笑いながら﹑「ヘタ
クソ」と言っちゃったんです。スイスではこういう憎まれ口﹑友达
同士の间でよくあることなんです。"がんばれよ"みたいな感じで
言うんだけど﹑日本じゃこういうノリはまったく通じなかった。部
活の後にひとりで呼び出されて﹑大势の先辈に囲まれて…(笑)。结
局﹑その先辈たちがサッカー部に在籍している间は﹑す~っとにら
まれていました。试合をしていても﹑ボールがこっちに全然パスさ
れなかったりするんで﹑1、2年のときは﹑试合に出れたり出れな
かったり。でも3年のときには﹑レギュラーなることができて﹑
全国大会で2位になりました。その顷から﹑仆の中で将来は﹑プロ
のサッカー选手になることを梦见るようになったんです。
ところが﹑高校に入ってからはとにかくケガ続き。高1のときに
ケガをして﹑やっと治って复帰できたと思ったら﹑さらに高2で
致命的なケガを负った。足首の付け根を骨折して﹑病院の先生から﹑
「これ以上サッカーを続けたら﹑歩けなくなるかもしれないよ」と
言われたんです。そのときの絶望感といったら…。これまでの人生
だって﹑すでにたくさんの山や谷があった。それを何とか乗り越え
てきたけれど﹑今さらサッカーができなくなるってのは﹑いったい
何なんだ。"ちょっとキツイな俺の人生﹑あまりにも不幸だ"って思
ったんです。子どもの顷﹑あんなに泣き虫だったのに﹑このときは
泣くことすらできなかった。人间って﹑本当に悲しいと泣けないん
ですね。それでも﹑痛み止めを打ちながらサッカーは3年生まで続
けて﹑梦だった国立竞技场のピッチを踏みました。
俳优という仕事に出会って
大学は﹑サッカーと英语の2芸入试で入りました。けど﹑足の调
子もさらに悪くなっていって﹑结局﹑入部した大学のサッカーは2
か月でやめてしまった。そこでさらにまた落胆したんだけれど﹑こ
れからの人生﹑まだまだ长いんだし﹑次の梦を探さなきゃいけない
と思ったんですね。そのとき﹑漠然とだったけれど﹑海外に行けば
何かが见つかるような気がしたんです。そのためには﹑手っとり早
くお金が稼ぎたかった。そんなとき﹑大学の先辈でモデルをやって
いた人が﹑「じゃあ﹑モデルの仕事をやってみれば」と诱ってくれた
んです。それでモデルをやっていたら﹑突然﹑俳优の道が开けた。
本当にラッキーですよね。だけど﹑実はその幸运を手放しで喜ぶ
ことができない自分もいるんです。目标に向かってがんばってが
んばって﹑やっと梦に近づくと﹑そこには挫折が待っている…どう
してもそんな気がしてしまって。今までがそうでしたから。という
か﹑人生いつもいい时期ばかりは続かないですよね。俳优の仕事は﹑
大変な部分もたくさんあるけれど﹑やりがいがあるし﹑楽しい。で
も﹑そこだけしか见ないで固执し続けるのではなく﹑常に﹑いろん
な分野にもアンテナを张りめぐらせていたいと思うんです。それ
が人间としての厚みにもつながると思うし。今は﹑魅力的な人间に
なることが﹑いい役者になる一番の近道のような気がしています。
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排版段落皆与写真书相同。
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1F:推 red1981:不知道是那一本 所以还没收录,等小版主回来收 04/19 22:57
2F:→ mewmi:就是 Hiro 第一本写真集 名称就是 Hiro 04/19 23:17
3F:→ mewmi:前面一百问的推文 就有讨论了 我帮忙打上来 04/19 23:19
4F:推 red1981:XD 没关系 给他收 让他有事忙 04/19 23:26