UTENA 板


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我很想知道里面的内容, 不过我不懂日文... 谁可以帮我翻译一下呢? ----------------------------------------------------------------------------- ■はじめに 『少女革命ウテナ』は恐らく、ヘルマン・ヘッセの『デミアン』、そして池田理代子の 『ベルサイユのばら』へのオマージュとして発想されていると思われる。この事に気づ かせるものとして、生徒会メンバーが集まる际に缲り返される以下のセリフがある。 「卵の殻を破らねば、雏鸟は生まれずに死んでいく。 我らが雏だ。卵は世界だ。世界の殻を破らねば、我らは生まれずに死んでいく。 世界の殻を破壊せよ。世界を革命する为に」 これによく似たフレーズが『デミアン』の中にも登场する。 主人公ジンクレエルが梦に见た光景をスケッチし、导き手である友人デミアンにその意 味を解いてもらおうと送ったところ、不思议な方法で送られてきた手纸である。 「鸟は卵の中から抜け出ようともがく。卵は世界である。 生まれ出んと欲するものは、一つの世界を破壊せねばならない。 鸟は神に向かって飞ぶ。神の名はアブラクサスという」 ひとつは、ここに使われているモチーフが酷似している事。そしてもうひとつは、どこ からともなく届く手纸というシチュエーションが、“世界の果て”から届く手纸を思い 起こさせる事。そして映画版『少女革命ウテナ~アドゥレセンス黙示録』のCMに“神 の名はアブラクサス”というフレーズが使われている事が、『デミアン』との影响関系 を検讨してみる価値があると思わせるのである。そして『少女革命ウテナ』での重要な キーワードである“革命”という言叶は、『デミアン』にもしばしば登场する。両者と も、本来の政治的な革命では无く、内的な世界を革新する、という比喩的な意味で使わ れている。 同时にこのキーワードは、本来の意味での革命を题材にした『ベルサイユのばら』にも 注意を向けさせる。决闘、革命、王妃アントワネットと、それを守る近卫队长である男 装の丽人オスカルの人物配置、キャラクターやコスチュームのデザイン、宝塚のような 耽美な演出などに强い影响を感じさせる。 『少女革命ウテナ』という作品が、暗示的で寓意性の高い演出法を采用している为、単 纯に観ただけではかなり难解であり、すんなりと理解に繋がらない。そして意味を察し かねる、印象的なフレーズや场面が随所にちりばめられており、作品の外部に手挂かり を求めなければ、あまりに不可解な物语なのである。以上の理由から『デミアン』『ベ ルサイユのばら』を参照しながら、『少女革命ウテナ』で何が起きたのかを考えてみる 。   ■おとぎ话 オープニングでおとぎ话风に缲り返される、お姫様が王子様に出会い、憧れるエピソー ドがある。これを最终话まで踏まえて解釈すれば、以下のようになると思われる。 両亲を失った少女ウテナは、辛い现実に対する自分の无力さに絶望し、棺に闭じこもっ て世界との交流を断つ。そこへ救いの王子ディオスが现れ慰める。そして永远に苦しむ アンシーを见せる。ウテナはアンシーを救うようディオスに頼む。ディオスは、彼女を 救えるのは彼女の信じる王子様だけだが、自分はアンシーの王子様にはなれないと答え る。ウテナは自らが王子様になってアンシーを救う决意をする。そして、ディオスは蔷 薇の刻印を授け、大きくなってもその强さと気高さを失わなければ、この指轮が再びこ こに导くだろう、と告げる。ウテナは再び生きる気力を取り戻す。 これがストーリー全体を支える、核になるエピソードである。   ■天上ウテナ 「たった一人で深い悲しみに耐える小さな君。その强さ、気高さを、どうか大人になっ ても失わないで」 ~オープニングナレーションより 王子の条件である强さと気高さ。ウテナの持つ强さ、気高さとは何だろう。棺に闭じこ もった幼いウテナは、王子ディオスの慰めに救われた。そして自分と同じように苦しん でいるアンシーを见た。ディオスが、苦しむアンシーをウテナに见せたのは、棺に闭じ こもり続ければ、やがてアンシーのようになってしまう、という事を伝えたかったのだ ろう。しかし、ウテナはそれ以上のものを感じた。ディオスに救ってもらった自分の目 の前に、今まさに、苦しんでいる人がいる。自分が救われたのなら、さっきまでの自分 のように苦しんでいる人も、救われるべきではないだろうか。苦しみから救ってもらっ た自分が、目の前で苦しむ人に救いの手を差し伸べないのは卑怯なのではないか。 しかし、救い手になるのは困难な道である。大抵の场合、自分は救って欲しいが、救い 手になる重荷は背负いたくない。では、それ以外の选択肢はあるだろうか。…もう一つ の道。それは自分が救われた事を、そして救い手の存在を“忘れる”事である。 『デミアン』にこんなエピソードがある。主人公ジンクレエルは、幼少の顷は清く正し い両亲の庇护のもと、幸福な光の世界に生きていた。ある时、上级生で粗暴な悪童クロ オマアに目を付けられないよう、仲间のように振舞う为に、近所の农园から林檎をたく さん盗み出したという嘘の武勇伝をでっちあげ、话して闻かせた。しかし、クロオマア はこれを盾にジンクレエルを恐喝する。ジンクレエルは両亲に预けてある贮金箱の金を 持ち出したり、买い物カゴの钓銭をくすねてはクロオマアに捧げた。彼はかつて属して いた“明るい世界”を失って、“暗い世界”に属するようになってしまったと感じる。 クロオマアに従属し、永远に続くかと思われる辛い日々を送る。 そんなある日、デミアンが近づいてきて、隠そうとするジンクレエルを巧みに説得し、 悩みを闻き出す。そして、その日を境にクロオマアからの呼び出しがなくなった。デミ アンがクロオマアと话をつけて、ジンクレエルを解放したのである。ジンクレエルは喜 んだ。しかし、ジンクレエル自身が强くなる事を望んでいるデミアンが、自分をより困 难な试练の道へ导くだろうと察する。自分の弱さと向かい合う事を恐れたジンクレエル は、デミアンのしてくれた事を忘れ、両亲の庇护するもとの楽园に逃げ帰ってしまう。 さて、ここで语られている“林檎を盗んで楽园を追われる”という构造は、创世记の失 楽园の物语と同じである。そして、その原罪から解放してくれる救い手と言えばイエス の事だ。このエピソードは圣书を暗示しているように思える。圣书におけるイエスは、 自分には罪が无いにも関わらず、全人类の罪を身代わりに负って磔刑を受ける救い手で ある。新约圣书は、イエスによって救われた者はイエスのようになる事を勧めている。 「神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなけ ればなりません」 ~新约圣书 ヨハネの手纸 第一 2章6节 「爱する者たち。私たちは今すでに神の子供です。後の状态はまだ明らかにされていま せん。しかし、キリストが现われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわか っています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を见るからです。 」 ~新约圣书 ヨハネの手纸 第一 3章2节 しかしジンクレエルは、デミアンが示した様に生きるのを恐れ、知らなかった事にして 逃げてしまったのである。『少女革命ウテナ』においては、有栖川树璃が幼少の顷、溺 れた姉を助けようとして死んだ少年の名を忘れてしまった、というエピソードが、『デ ミアン』からの引用だと思われる。このエピソードは、ウテナが最後の闘いである“革 命と言う名の决闘”を闘っている最中に语られる。西园寺はウテナの胜利を谛め、蔷薇 の刻印を外そうとする。冬芽はそれを制し、ウテナが自分达の代表として戦っている事 を思い起こさせた。その时、树璃がこの话しをするのである。もうこんな事は忘れてし まった方がいいと、早々に蔷薇の刻印を外してしまっていた七実は、何故今そんな话を するのか、と不安げに问う。 あえてここでは、树璃の姉を救ったのは死んだ少年ではなく、近くに居合わせた大人と いう事になっている。少年が救出に成功したかどうか、また、これが谁だったのかは问 题ではない。その少年の行为を见た者の、その後の生き方が问われているのだ。その気 高い生き方を目にした时、その事に共感できるかどうか、そのように生きようと思える 気高さを持っているかどうか、が问题なのである。 ウテナが世界を革命する者に决まった时、树璃は自省的にこう语る。生徒会执行部の一 员であるにも関わらず、自分の事ばかり考えてきた。そして未だに自分の事で精一杯だ と。そして结局、物语の最後には、ウテナが世界を革命する为に闘っていた事を、彼ら は忘れてしまうのである。 このようにして、大半の人间は救いを享受するが、救い手の犠牲は省みずに元の生活に 戻ろうとする。その结果、救い手になろうとする者への重圧は、计り知れない重荷とな り、救い手を押し溃してしまうだろう。だからこそ、救い手になろうとする者は気高い のであり、また、この重圧によって救い手ディオスは力尽きて倒れたのである。 ウテナと他のデュエリストとの违いはここにある。他のデュエリストは、それぞれに、 かつて失った楽园(光さす庭)を取り戻す事を目的に决闘に参加している。しかし、ウ テナはアンシーを蔷薇の花嫁から解放する为に闘う。救われた时、自分も救い手になろ うと决意した気高さを失っていないということであろう。これが决定的な违いである。   ■姫宫アンシー 王子を独り占めにした罚で永远の苦しみを受ける“蔷薇の花嫁”。この“蔷薇の花嫁” とは何だろう。 いつか少女を迎えにやって来る白马の王子様は、一般的には少女の幸せ、ハッピーエン ドの代名词である。少女は王子様に憧れ、待ち焦がれる。この王子様を手に入れた女の 子が“蔷薇の花嫁”である。ならば、王子の迎えを待ち望む女の子は“蔷薇の花嫁”予 备军と言って良いだろう。勿论、谁もがそうなれる訳ではない。しかしアンシーは、女 の子は皆、蔷薇の花嫁みたいなものだと言っている。蔷薇の花嫁は、白马の王子を待ち 望む少女达の行く末を暗示しているのである。 王子を手に入れた少女は、幸せを掴んだはずである。何故アンシーは苦しみを受けなけ ればならないのだろう。『少女革命ウテナ』は、白马の王子様を待ち望むという、その 価値観に疑问を投げかける。「白马の王子」を待ち望むという事は、言い换えれば、他 人(男)の権威や庇护に依存して生きる事を望む、と言う事だ。その望みが満たされた 状态とは、他人の権威や庇护に依存して生きているという事である。王子は一体、この ように自立していない少女の何を必要としているのだろうか。冬芽が主になった时、ア ンシーが若叶に料理を教わろうとするのを禁じるシーンがあった。西园寺は、ディオス の剣と蔷薇の花嫁は、自分を饰る华だと言った。蔷薇の花嫁は、王子を引き立てる华と して、その従属を望まれているのである。 たくさんのライバル达の中から选ばれるのは、少女自身の魅力がそうさせるのではなく 、王子が选んでやるのでなければならない。アンシーは言うまでもなく自立した女性と しては描かれていない。エンゲージする者に絶対服従を贯く、魂の无い人形である。作 中にはこんなエピソードもあった。 薫干・梢の兄妹は、自分たちの成长过程を“野生动物”のようだと言った。彼らをその ような家庭环境に置いた父亲は身胜手な人间だったと推测出来る。妻にもそのように接 していただろう。そして现在、妻はいない。梢らの父への反発、嫌悪から察するに、妻 はそのように扱われる事を拒み离婚に踏み切ったと思われる。そんな父亲が再婚をする と电话で连络して来た。その际、隣にいた再婚相手の女性は、蔷薇の花嫁のコスチュー ムを着ているのである。新しい母亲は、従属を望む男の眼镜にかなう女性なのだ。蔷薇 の花嫁とは、男の庇护と抑圧に甘んじる、自立出来ない女性の象徴なのである。 しかし同时に、蔷薇の花嫁は魔女とも言われている。この“蔷薇の花嫁”は、王子にと っても不幸である。自分を饰る条件さえ満たしていれば谁でもいい、女はそういうもの だと思っていれば、当然、対等な心からの交流など出来るはずもない。いつも自分の言 う事に合わせて颔くだけの相手との関系など镜の自分と话しているようなものだが、自 分はいつも正しく、强く、伟いと误认してしまうだろう。理不尽にわがままな男と、何 を言っても颔く女の闭じた世界が出来上がり、悪循环から抜け出せなくなってしまう。 だから蔷薇の花嫁は、ユングの言うグレートマザーでもある。生み、育み、包み込む母 は、同时に、呑み込んで离さない、子の前に立ちはだかる恐るべき母、王子を无条件に 支える事で王子を甘やかし、堕落させてしまう魔女なのである。(後述するが、『デミ アン』はユングの学説を基に作られている。) そして、アンシーが魔女になった时、ディオスは死に、“世界の果て”になってしまっ た。   ■凤暁生(ディオス/世界の果て) かつて王子だったディオスはウテナに似ていた、とアンシーは言う。しかし、力尽きて 倒れ、押し寄せる民衆に失望し、正しい手段で理想を実现しようとする事の无力さを知 った时、彼は自らの信じる世界の“果て”を见た。アンシーはディオスを守る为に封印 する。ディオスはその力を失った。その时、彼は悟る。“気高さ”などは役に立たない 、もっと“强い力”こそが必要なのだと。彼はたくましい男になり、権力を目指し、手 段を选ばない“世界の果て”となった。“强い力”によって目的を达しようとする暁生 は、もうアンシーの信じる気高くやさしいディオスではなくなった。弱い者は庇护して 贳わなければならず、自分では何も出来ない者とみなした。弱い者は支配を欲している とみなした。男は强くたくましく、女は慎ましく従顺であれ、と。そして蔷薇の花嫁は 、その彼を肯定し、受け入れ、支持し、服従する。强権的な相手に无抵抗で服従する事 は、结果的に力による解决を认めたと言う事になる。しかし、その抑圧に逆らえば、庇 护を失い、惩罚を受ける。これは自立した人间同士の対等な関系ではない。庇护され、 自分で难しい决断を下す必要もない代わりに、王子の望む通りであらねばならない。そ れはアンシーの可能性を制限する限界、暁生もまた、アンシーの“世界の果て”として 立ちはだかる存在となった。 そして、理想に向かい、信念に基づいて生きる事、気高く生きる事の限界、“世界の果 て”は、暁生、アンシーだけでなく、他の登场人物全てにいろいろな形で立ちはだかっ ている。现実の壁に突き当たった者に、生徒会长・桐生冬芽が言う。 「君の魂がまだ本当に谛めていなければ、世界の果てを駆け巡るあの音が闻こえるはず だ。诱おう、君の望む世界へ!」 そして世界の果てとなった暁生が车に乗ってやって来る。免许を必要とする“车”は大 人の象徴であろう。冬芽を乗せてドライブする暁生が运転を勧めた时、冬芽は「俺はま だ…」と断っている。そして、同じ道を西园寺を乗せて走る时には、バイクを使ってい る。因みに最後の决闘が终わった後、少年时代を思い出して自転车に乗っている事から も、成长过程を表していると思われるのである。そして、このドライブの果てに、挫折 を乗り越える为の“大人の分别”を手に入れるのだ。 このように、かつてはディオスとして少年の姿で现れていた王子様が、やがて“世界の 果て”という大人の男として现れる。この“大人になる”という事をどう捉えるのかが 、『少女革命ウテナ』を理解する上での一つの重要な视点なのである。『デミアン』で は、ジンクレエルの精神が成熟していく様が寓意的に描かれていた。子供时代に生きて いた清く正しい“明るい世界”と、その外にある“暗い世界”。导き手である少年デミ アンは、世界がこの二つの面で出来ているにも関わらず、“明るい世界”しか肯定しな いキリスト教の欠陥を指摘する。そして、存在する全世界を崇める为には、もう半分の 世界である“暗い世界”を认め、悪魔をも礼拝するか、あるいは両面を备えた完全な神 を作り出すほかはない、と言う。 『デミアン』は、ジンクレエルがこの“二つの世界”をあるがままに受け止められる、 完全な、安定した精神を得るまでの物语であり、錬金术やグノーシス主义などに影响を 受けたユングの学説、“个性化の过程”がベースになっているようである。そして『少 女革命ウテナ』にとっても重要な要素となっている。   ■『デミアン』 冒头で引用した手纸は、ジンクレエルの精神の成长を促す为にデミアンが示したヒント である。 「鸟は卵の中から抜け出ようともがく。卵は世界である。 生まれ出んと欲するものは、一つの世界を破壊せねばならない。 鸟は神に向かって飞ぶ。神の名はアブラクサスという」 アブラクサスとは、グノーシス主义に登场する神霊で、作中の説明によれば、神であり 、悪魔であり、明るい世界と暗い世界を一身に宿していると言う。だから、アブラクサ スは、どんな思想にも、どんな梦にも一切文句などつけない。キリスト教の神のように 、生命の父である神を賛美するように言いながら、性生活は悪魔の仕业と黙杀するよう な不完全な神ではないと言う。 グノーシス主义では、物质世界を创造したのは伪の神デミウルゴスである。アブラクサ スはデミウルゴスが最初に创造した息子であり、无知で邪悪なデミウルゴスよりも优れ た者となった。そして知恵の実を人に食べさせ、デミウルゴスから离反させた解放者な のである。グノーシス主义から见れば、ユダヤ・キリスト教のヤハウェとデミウルゴス は同一视されている。また、イエスはアブラクサスが送った霊であるとする説もある。 导き手デミアンは、ジンクレエルが持つキリスト教の常识に、まるでエデンの园の蛇の ように、少しづつ疑いを差し挟んで、抑圧する神から自由の神へ目を向けさせて行く。 ジンクレエルの自宅のアーチ型の门の上には、かつて修道院の一部だった顷の、古い鸟 の纹章があった。今では何度もペンキで涂りつぶされていて、よく见えない。 彼の自宅は失った楽园として描かれており、キリスト教では鸟は自由な魂を象徴する。 つまり、楽园に闭じ込められている魂のイメージである。デミアンはこの纹章に関心を 示す。その後、デミアンと离れ离れになったジンクレエルは梦を见る。黒い地球の中に いる鸟が、外へ出ようともがいている。この梦をスケッチして、自分の名前も书かずに デミアンに邮送した。しばらくすると、教科书の间に手纸が挟まれていた。そこに书か れていたのが、「鸟は卵の中から~」と言う例の文章である。 この手纸は、ユングの“个性化の过程”の概念を、端的に言い表している。心全体を指 す“自己”の中で、意识されている主な部分を自我”という。自我は、ものの违いを认 识し、比较分类して行く过程で、生存にとって肯定的なものとして采用されたイメージ の集まりである。言い换えれば、物事を判断する为の価値基准、価値体系と言える。こ れが意识されている自分である。自我は、同一的で连続的な自分を形作っている大切な ものである。一方、この自我に组み入れられなかったイメージは自我の外、つまり无意 识の中にある。自我が肯定するものの里には、必然的に否定されたものが存在するが、 このイメージも无意识下でコンプレックスという価値体系を作っている。自分の生存に とって否定的なものとして退けられたイメージである。 これらの価値観は、家族や自分が属する文化圏、自分を取り巻く环境など、外界の要请 に従って形成される为、互いに矛盾したり、本来の自分の性质に反する価値基准を采用 する事もある。このギャップが负担になってくるので、补偿机能というものが働く。自 我に组み入れられなかったもう一人の自分、シャドウが无意识から顔を出し、バランス を取ろうとする。しかし、ほとんどの场合は破壊的、冲动的に现れるので、必ずしも良 い结果を生む訳ではない。 この自我とコンプレックスが、その人の価値判断や行动规范を作り出し、人の行动をコ ントロールしているのである。これらの価値体系は、环境に合わせて単纯なものからよ り复雑なものへと段阶的に形成される。赤ん坊は保护者や限定的な环境から受ける、安 定した刺激と反応によって、初めは“快”、“不快”から価値観を形成して行く。オム ツが不快で泣いた时、いつもこの人が来ると不快が解消される。だからこの人は良いも の、という具合に。そして、心は安定すると価値体系を壊して、可能性を広げようとす る性质がある。これまでに形成された価値体系より高度な価値が现われた场合、低い価 値観は否定され、新たな価値を含んだ価値体系を再构筑する。ユングは、このメカニズ ムを突き止め、これを自ら意识的に行う方法を提案したのである。 “个性化の过程”とは、自分を形作っているが、同时に自分を制限している“自我”に 、无意识の中に取り残されている価値観を统合して行く事で、可能性を広げていこうと する努力の事である。何故“过程”なのかと言うと、これは最终的に达成される事が无 いからである。 『デミアン』は、主人公ジンクレエルの“个性化の过程”を辿る物语であり、デミアン からの手纸は、“自我”(卵、世界)の制限(殻)を破り、意识(明るい世界)と无意 识(暗い世界)の両方を认めるような、新しい価値観(アブラクサス)を获得する努力 を促すものだったのである。目指し続けるけれど、到达する事は无いので、“鸟は神に 向かって飞ぶ”という表现になっているのだろう。 では、『少女革命ウテナ』における“世界の果て”からの手纸はどうだろう。“世界の 果て”からの手纸は、世界を革命する为に、世界を革命する力を获得するように导く。 手纸の送り主である“暁生”の名は、明けの明星、金星から名付けられたと言う。金星 はルシファ、神に叛逆してサタンとなった堕天使である。キリスト教では、エデンの园 で人に禁断の果実を食べるように勧めたのが、このルシファであったサタンとされる。 デミアンの手纸が、ジンクレエルの世界の殻を破る为の禁断の果実であった様に、“世 界の果て”から来る手纸も、世界の殻を破壊する为の禁断の果実なのだろうか。 确かにこの手纸は、自分を限定する世界の殻を破る事、世界を革命する事を促す手纸に 见える。しかし、手纸の送り主である“世界の果て”の目的は、自らが失ったディオス の力を引き出せそうな人材を集め、戦わせて最期まで胜ち残った者からその力を夺う事 であった。つまり、世界を革命する力を手に入れさせるところまでは导くが、手に入れ た力は蔷薇の门を开く为に、暁生が使うのである。この手纸は罠であり、暁生は伪りの 世界を支配する伪りの神なのである。 この事は『少女革命ウテナ』の中で、知恵の実というシンボルが、どのように使われて いるかを见れば分かる。薫干による紧急动议で生徒会メンバーが集まった际、林檎を切 り分けるイメージが使われていた。通例では、“世界の果て”からの手纸に従って集い 、手纸に従って行动して来たが、この时は例外的に集まった。そして干の提案は生徒会 の解散。どれほど大きな力が手に入ろうとも、蔷薇の花嫁を决闘で夺い合う事は、アン シーの人格を蔑ろにするものであり、许される事ではないと言う。自分达のしている事 は、人间にとって大切なものを壊そうとしているのではないか、と。 干がこの提案をするきっかけになったのは、ウテナがアンシーを谕しているのを闻いた ことである。学园を支配している絶対の掟に対して、ウテナが疑いを差し挟んだのであ る。ウテナの生き方は暁生の価値観を否定する。だからこそ暁生は、自分の存在を揺る がすウテナを无力化する为の谋略を巡らせなければならなかったのだ。デミアンからの 手纸と同等の役割を担っているのは、実はウテナの生き方なのである。『デミアン』で は导き手の手纸であったものが、『少女革命ウテナ』では罠の役割をしている。しかし 、この手纸はある段阶までは导いてくれるのである。 では、手纸をによって集い手纸に従う者达、“蔷薇の刻印”と言う印を持ち、そして决 闘で蔷薇の花嫁を夺い合う権利を持つ、デュエリストとはなんだろう。   ■デュエリスト/蔷薇の刻印 デュエリストは何故选ばれ、何の为に戦うのか。そして蔷薇の刻印とは何なのか。“蔷 薇の刻印”という、蔷薇の纹章が记された指轮。これはデュエリストの证である。『デ ミアン』の中にも、选ばれた者の持つとされる“しるし”が登场する。 デミアンはジンクレエルに、授业でやったばかりの圣书の物语を例にとって、これまで 常识としていた事柄も、无批判に受け入れずにもう一度考え直してみる事を勧める。そ の日授业でやったのは、旧约圣书の创世记に出てくる、カインとアベルの物语であった 。神の言いつけに背いて知恵の実を食べた为に、エデンの园を追放されたアダムとイブ の间に2人の子供ができた。 この息子达は、神に感谢の捧げ物をした。耕す者となった兄カインは収获物を、羊を饲 うものとなった弟アベルは羊を。特にアベルは、羊の初子の中から最良のものを选んで 神に捧げた。神は弟アベルの捧げ物には心を留めたが、兄カインの捧げ物には心を留め なかった。兄カインは弟アベルを荒野に呼び出して杀してしまう。神はカインを呪い、 彼が耕しても地はもう何も生み出す事はなく、地上をさまよい歩く者となると言った。 カインは访れる先々で罪人として迫害を受けて、杀される事を恐れた。神はカインが杀 されないよう、彼を守る为のしるしを与えた。 デミアンはこの话は不可解だと言う。神は何故、罪を犯したカインに手を出せないよう に、まるで勲章のようなしるしを与え、彼を守ってやる必要があるのか。こういう话は 真実だろうが、正しく伝わっているとは限らない。実は、カインは力ある者で、他の人 々から恐れられていた。人々はカインが目障りだったが、恐れていたので手出しは出来 なかった。ただし、人々はカインに手出しが出来ないのは、自分が臆病者だからだ、と は言わない。自分の臆病の言い訳として、彼には“しるし”があるから手出しが出来な いのだ、と言う伝説を付け加えたのではないか、と。 ジンクレエルは、确かにカインは他人とは违っていたのかもしれないと思い始める。カ インのしるしとは、その眼差しに宿る勇敢さ、気高さなのである。そしてジンクレエル は、デミアンにもそのしるしがあると感じた。 デミアンは别の时、こんな话をする。イエスは自らに罪が无いにも関わらず、罪深い人 类の身代わりに磔刑を受けて死ぬのだが、この磔刑の时、イエスは2人の罪人と一绪に 十字架にかけられた。一人の罪人は自分さえ救えない救世主を非难した。もう一人は改 心し、イエスが昇天したら自分を思い出してくれと言った。イエスは改心した罪人に、 あなたは明日私とともにパラダイスにいるだろうと言う。 デミアンは、もし二人のうちどちらかを友人にしなければならないとしたら、信頼でき るのは改心しなかった方の罪人だと言う。彼は自分の思った通りに生き、これまで彼に 协力せずにはいられなかった悪魔と最後まで縁を切るつもりはない。さんざん悪事を働 いてきたくせに、墓场の二歩手前で改心する哀れっぽい罪人よりもよほど立派であると 。そして、この罪人もカインの子孙かもしれないと言う。 やがて物语が进むにつれ、このしるしを持つ者とは、目覚めたる者、目覚めつつある者 である事が明らかになる。 カインの子孙达は、常识や惯习、権威など、外部からの要请に惰性で従う事を由としな い気高さを持った者である。 変化に伴う困难を恐れて、现状维持に努める臆病者ではない。内なる自分と向き合い、 その本当に望んだ事を成し遂げようとする、気高く、勇敢な者达なのである。 デュエリスト达はどうだろう。自分の内なる声の欲している事を成し遂げる为に、世界 を革命する力を手に入れようと决闘に参加している姿が、殻を破って生まれ出ようとも がく、雏鸟の姿になぞらえられているのではないだろうか。そして、前述したように、 気高さを保ち続けるウテナは“しるし”を持つ者として相応しい。その気高さ故に、胜 ち残るべくして胜ち残り、世界を革命する者に选ばれたのである。 ところで、蔷薇の刻印は何故、指轮の形をしているのだろうか。 これは装饰的なものであるので、コスチュームと同様に『ベルサイユのばら』に根拠を 求めたい。 革命後、国王一家は王妃マリー・アントワネットの爱人フェルゼン伯の手引きで、王妃 の故郷オーストリアへ亡命しようとしたが、途中で捕まってパリへ移送される。逃亡に 加担したフェルゼン伯は指名手配され、フランスに戻れなくなってしまった。音信不通 のまま离れ离れになったアントワネットとフェルゼン。フェルゼンの身を案じて苦悩す るアントワネットは、フェルゼンの寸法に合わせて作らせた指轮を、2日间自分の指に はめて脉打つ爱の心、血の温かさをしみこませる。その金の指轮には、王家の纹章であ る百合の花と、一つの言叶が刻み込まれていた。 「臆病者よ 彼女を见舍てる者は…」 指轮の同封された手纸を受け取ったフェルゼンは、指轮をはめ、パリへ戻る决意を固め る。助け出したところで、もはや一文の得にもならないと、ヨーロッパの王达はアント ワネットを见舍てたが、フェルゼンは违った。命がけでテュイルリー宫へ忍び込むフェ ルゼン。再びアントワネットの前に现れ、アントワネットに指轮を渡す。この指轮には 、フェルゼン家の纹章とやはり言叶が刻み込まれていた。 「いっさいがわたしを御身がもとへ导く」 『少女革命ウテナ』における“蔷薇の刻印”は、世界を革命する者を志す気高さのしる しの他に、もう一つ役割があった。幼かったウテナを、再びアンシーのもとへ导く为に 、そしてアンシーを见舍てないと言う、気高い决意が実现される事を愿って授けられた 指轮であった。そして、やがては指轮の纹章と同じ校章を持つ凤学园に入ったウテナは 、アンシーと再会するのである。では、二人は何故、再び出会わなければならなかった のだろうか。   ■アンシーとウテナ アンシーとウテナは、合わせると一つの円环を成す半円のベッドに互い违いに寝る。本 来、二つで一つのベッドは、ずらされている为に一つの円を描かない。二人は、互いに 不足しているものを持っている。二人は、互いの価値基准が否定した结果、失われた半 分なのである。 暁生は星を见ながら话す二人を见て、まるで双子座のカストルとポルックスのようだと 言う。これはギリシア神话に伝わる话である。このゼウスとレダの间に生まれた兄弟は 、仲が良くいつも连れ立って行动し、共に协力し合ってどんな穷地をも乗り越える事が 出来た。 ある时、いとこのイダスとリュンケウスと共に、牛の群れを追う事になったが、狩った 牛をいとこに横取りされてしまう。 怒った兄弟はいとこに戦いを挑むが、リュンケウスの矢に贯かれてカストルは息絶える 。ポルックスは悲しみのあまり、自ら命を絶とうとする。しかし、ゼウスの血を引く不 死身の身体を持つポルックスは死ぬ事が出来なかった。彼はカストルの元へ行ける様に 祈る。ゼウスは愿いを闻き入れ、二人を星座にしたと言う。 この兄弟、カストルは乗马の名手であり、ポルックスは拳闘の名手として名を驰せてい た。乗马と拳闘。ウテナは剣の决闘で胜ち抜いてきており、この时、既に闘士の属性を 备えていた。一方、乗马は出来ない。冬芽に诱われて马に乗るシーンで、その事が分か る。ウテナを後ろに乗せた冬芽は、怖がる様子を面白がって马に拍车をかける。ウテナ は落马したところを、危うく暁生に救われる。『ベルサイユのばら』には、乗马の経験 の无いアントワネットが、わがままを言って马に乗るシーンがある。走り出し、止まら なくなったところをオスカルに助けられるのである。ずっとお姫様を救う王子として描 かれていたウテナは、ここでは王子に救われるお姫様の立场を与えられている。王子役 の暁生は、ウテナに马の扱いについて教える。 暁生  「大丈夫だよ。ほら、体は大きいけど大人しいんだよ。臆病な动物だからね。 马とコミュニケーションして、信頼関系を深めて行くんだよ。」 ウテナ 「人と同じですね。」 暁生  「こいつも君の事、好きになったって言ってるよ。」 落马するシーンの直前には、ウテナは暁生からのプレゼントを赠られている。暁生が冬 芽に、适当に见缮って渡しておいてくれと頼んだものだ。冬芽はイヤリングを选んで赠 る。良く似合っていたが、ウテナ本人は仆には似合わない、と违和感を覚えている。そ れから、その前には花坛でヒナゲシについて讲釈する暁生。 暁生の「ヒナゲシの花言叶は…」と言うセリフが2度も中断され、结局、视聴者は最後 まで闻くことが出来ない。ヒナゲシの花言叶は、慰め、いたわり、思いやり、乙女らし さ、忍耐など、一般的に慎ましい女性に求められる性质を表す。その後、暁生と冬芽の 二人が、ウテナがプレゼントでなびくかどうかを话题にしている时、暁生はヒナゲシの 花に食いつき、花びらをむしりとる。そして、落马したウテナを暁生が救って连れて行 ってしまった後、そこに残された冬芽に告白する女の子の手には、ラブレターとヒナゲ シの花が。戸惑いながら告白する様は、ウテナとは正反対だ。この辺りのエピソードは 、男に庇护される可爱い女の子像を暗示している。ウテナをお姫様にしてしまおうとす る、暁生の企みが进められているのである。 暁生に憧れる冬芽は、暁生の価値観に同调しながらも、そういう型にはまらない、自立 したウテナの魅力にも気付き始める。媚びるタイプの女の子からのラブレターは冬芽の 足元に踏まれ、「プレイボーイとは古いな。」と呟く。西园寺曰く、冬芽はこれまで、 フェミニストを気取りながら、本当は谁も爱した事が无かったのである。それが、最期 の决闘の前には、傲慢な野心が消えており、今戦ってもウテナに胜てるか疑わしい状态 である事を西园寺に指摘されている。恐らく、最期の决闘の前夜にしたウテナへの告白 は、プレイボーイとしてではなく、彼の本当に気持ちだったのだろう。しかし、决闘の 日、冬芽は暁生の価値観を再び选択する。 冬芽  「お前が胜ったら、今後生徒会メンバーは蔷薇の花嫁に手出しをしない。その かわり俺が胜ったら、俺の女になれ!」 ここで暁生が、ウテナに求めている女の子像は、アンシーが持っているものである。慎 ましく、优しく、思いやりのある女性。それは悪い事ではないが、これらの性质が强く 出ているために、意见を言わず、不満に耐え、言いなりになってしまう。强い男に頼り 、守られる、そういう生き方を自ら望んでしまう自立できない女性。アンシーは乗马を するシーンこそ出てこないが、さまざまな动物や植物の面倒を看る优しさを表すシーン が几つもある。动物とコミュニケーションをとって信頼関系を筑く事が出来るアンシー は、暁生の言った马の扱い方を心得ているのである。 一方ウテナは、「人と同じですね」などと応じてはいるが、彼女自身は人の弱さを理解 出来ない。ウテナは自分の强さを皆が持っていると思い、アンシーに友达を持つように 强要したり、树璃に诗织を许せと言ったりする、お节介な王子様なのだ。アンシーや暁 生、树璃などが、人の心はそう単纯ではない事をウテナに何度も忠告するが、ウテナに は理解出来ない。それはウテナが强く気高いが故に、弱さを许さない为である。树璃は それを残酷な无邪気さと评する。马を人の心と考えれば、乗马の名手ポルックスは、ア ンシーなのである。 すると、拳闘とは何の比喩なのだろう。自分の信念を贯き通すために、障害に立ち向か う强さではないだろうか。树璃がこう言っている。 「どうして自分の気持ちは自分の思い通りにならないのだろう。」 これは、他の登场人物にも同じことが言えるが、唯一ウテナだけは、自分の思いに忠実 に生きる道を模索している。それが出来る强さを持っているのだ。『デミアン』の冒头 はこんな风に始まる。 「ぼくはもとより、自分のなかからひとりでにほとばしり出ようとするものだけを、生 きようとしてみたにすぎない。どうしてそれが、こんなにむずかしかったのだろう。」 『ベルサイユのばら』にもこんなセリフがある。オスカルは言う。 「みんなひとりひとりが…どんな人间でも…人间であるかぎり…だれの奴隷にもならな い…だれの所有物にもならない心の自由をもっている」 オスカルは强く、気高い。しかし、その为に分からない事があった。オスカルは、莫大 な浪费で国民の支持を失いつつあるアントワネットと、爱人フェルゼンとの仲が宫中で 噂になっている事と、それが国民の耳に入る事を案じ、処分を覚悟で注进する。アント ワネットは、自分の身を案じてくれるオスカルに谢意を述べるが、ついで、あなたに女 の心を求めるのは无理な事だったのか、と问う。王妃である前に人间であり、生きた心 を持った一人の女である自分の苦しみを、恋も知らぬうちに、政略结婚で顔も知らない フランス国王に嫁ぎ、王妃として生きる事を强いられているこの苦しみを理解してもら えないのかと。オスカルは冲撃を受け、激しい自责の念にかられる。オスカルは11歳の 时から将军である父亲に、身をていして王妃を守るようしつけられて来た。しかし、こ れほど侧にいながら、王妃の本当の苦悩に気付かないまま、结局守る事が出来なかった のだ。 『少女革命ウテナ』においても、ウテナは、ずっと生活を共にして来たアンシーの本当 の苦悩に気付かず、守っているつもりになっていた事にようやく気付き、自分は王子様 ごっこをしていただけだと、激しい自责の念を吐露するシーンがある。しかしその时ア ンシーもまた、激しく自分を责める。ウテナが无関系であると分かっていながら、その 无邪気さと优しさを利用する卑怯者だったと。ウテナはアンシーを理解出来なかった为 に、アンシーはウテナを解っていた为に、互いを伤つけていた事を告白し合う。 アンシーとウテナは相反する二つの価値体系である。ユングは、自己の目指すべき姿を 、“対立物の结合”と表现している。 そして、ベッドは二人の象徴する関系を表すシンボルである。ベッドの円环は自らの尾 を噛む蛇、ウロボロスを表している。デミウルゴスが世界を创造した原初の状态、自己 完结、自己充足で永远不変の完全な状态。これは意识が无く、対立が无い状态、生まれ たばかりの赤ん坊の心である。それがずらされて円を成さなくなった状态は、価値体系 である“自我”が生じた为、自我の由としたものと、しなかったもの、つまり意识と无 意识が生じた事を表す。互い违いに寝ているのは、お互いが対立し、分离している事を 表している。 そして、この対立が対立したまま结合するという一见不可能とも思える状态、対立物の 结合が究极の状态なのだ。ユングもこれを重视しており、『デミアン』でも重要なテー マになっている。 ウテナはアンシーの、アンシーはウテナの、それぞれの自我に禁じられている可能性、 もう一人の自分なのである。再び円环を成す事を目指して物语が纺がれて行くと言う事 は、この対立物を全体の统一性を持って统合する事が求められているのだろう。ウロボ ロスは再生のシンボルでもあるのだ。 『少女革命ウテナ』では、ウテナとアンシー以外の登场人物达にも、それぞれに特徴的 な背景が用意されている。しかしよく见ると、全てはアンシーとウテナに収敛されるよ うになっている。ユングの学説にシンクロニシティ(共时性)という概念があるが、こ れは明确な因果関系のない偶然の一致の中に、意味を见出そうとする心の働きの事であ る。决闘の森で行われる戦いは、ウテナとアンシーの内にある问题に共鸣し、変化を促 す重要な役割を果たしている。   ■生徒会编 生徒会编では、7つの决闘で各登场人物の持つ背景が语られ、それぞれのデュエリスト 达が何故世界を革命する力を欲しているのかが示される。応じるウテナはアンシーを守 る为に、そして决闘システムを否定する为に闘う。しかし、守られている当のアンシー は、虚ろな目で决闘を眺める。彼女はいつもどんな事を考えながら决闘を见ていたのだ ろうか。 ウテナはエンゲージしてからずっと胜ち続けるが、それは彼女が强いからではない。先 で述べたように、他のデュエリスト达と志が违うウテナにはディオスが降临するのであ る。しかし、冬芽との决闘で初めて败北する。冬芽に自分の中の王子様を投影して、一 瞬、信念が揺らいだからだ。 『デミアン』にこんな例え话がある。 星に恋をした男がいた。男は海辺に立ち、両手を伸ばして星を崇めた。星を抱きしめる 事が出来ないのは分かっていたが、それを运命と纳得して想い続け、立派な文学作品を 生み出すことが出来た。ある日、想いが募って最高に高まった时、星へ向かって虚空に 身を投げ出した。しかし、もうすぐ星に手が届こうとした刹那のほんの一瞬であるが、 届く訳が无い、と疑いを抱いてしまう。そして彼はバラバラになって渚に倒れていた。 もし、想い続けることができたなら、星と一つになっていただろう。ウテナは言う。 「姫宫には仆が必要なんだ!姫宫は友达が欲しいって言ったんだ!」 新しい主になった冬芽は、アンシーに返事をさせる。彼女の返事は、これまでウテナが 思っていたのとは反対の言叶、冬芽の促した通りの答えだった。これまでウテナが见て いたアンシーは、ウテナの望んだアンシーだったのだ。アンシーはエンゲージするもの に合わせた顔を持つ。西园寺のアンシー、ウテナのアンシー、冬芽のアンシー。自我の 中で、対外的な振る舞いを规定する部分を、特にペルソナと言う。普通、心の振る舞い は、自分に対する本音の部分と、対外的な部分は违っている。このペルソナは、人间関 系を円滑にするには必要なものであるが、自分の内面までペルソナに合わせるのは良く ない。本当の愿望を无意识に押し込んでしまう事になる。しかし、アンシーはこの段阶 で自分の本当に望んでいる事を认识していない。最初から全てをあきらめているのであ る。决闘の际も、他人事のように思っていたに违いない。 ウテナはどうだろうか。ウテナはアンシーの为に自分が必要なのだと思っていたが、蔷 薇の花嫁がどういうものかが良く分かっていなかった。エンゲージする者でなくなった 时、ウテナの见ていていたアンシーはいなくなってしまった。败北し、挫折したウテナ は男装をやめて女子の制服を着る。若叶は、ウテナらしくない、ウテナの普通じゃない 、と怒り、元に戻るように执拗に恳愿する。何も分かっていない若叶に口出しするなと 言うが、若叶は自分の主张を贯く。 アンタの普通ってもっとカッコいいはずでしょ! ウテナに疎んじられても、自分の愿望に忠実に行动する若叶。必死の若叶を见て“自分 らしい”という事を理解したウテナは、アンシーを取り返す为に、冬芽に决闘を申し込 んだ。これまでのように“アンシーにウテナが必要”だからではなく、自分らしくある 为に、“ウテナがアンシーを必要としている”からである。ウテナはこの败北をきっか けに、他人の为の王子を目指すペルソナが要求するからではなく、本当の内なる声に従 って行动しなければならない事に気づいたのだ。 自分らしさを取り返しに行くウテナ。まだ取り返していないので、女子の制服を着て决 闘に临む。 冬芽はアンシーに命令を下し、蔷薇の花嫁の力で守らせたディオスの剣の威力を见せつ ける。 そして、これまで见えなかったアンシーの本音が垣间见える。ウテナが今の冬芽に胜て る訳が无い。ウテナは死ぬかも知れない。无谋なウテナを蔑むアンシー。 「早く终わらないかな。」 しかし、これと同じような光景をかつて见たことがあるのを思い出す。アンシーはウテ ナの中に、今は失われた、かつてのディオスを见る。涙が頬を伝う。まだ主である冬芽 の持つディオスの剣から、蔷薇の花嫁の守りが消え、ただの剣に戻ってしまう。 これは、蔷薇の掟に反する现象と言える。アンシーの心に芽生えた変化を反映している のである。 西园寺が伪の手纸に骗された时、神隠しにあったと思われたアンシーは决闘広场で见つ かったが、この时、彼女は赤い蔷薇を敷き诘めた棺の中にいた。天の城が崩れ落ちる幻 覚の中、手を伸ばしてアンシーを救い出すウテナは、この物语全体の目指している结末 を仄めかしている。かつて、棺の中にいたウテナをディオスが助けたのと同じように、 今度はウテナがアンシーを棺の中から救い出そうとしているのである。その第一歩とし て、棺の中で死んだように眠っていたアンシーの目を覚まさせたのが生徒会编であった 。この棺は、生徒会メンバーによって缲り返されるセリフの卵の殻/世界と同じものと いって良いだろう。最终回まで考虑するならば、棺とは凤学园である。 现在の凤学园に、歳を経た千唾时子が访れるシーンがある。その时、彼女は暁生と御影 草时が以前と全く変わらないと言った。それに対して暁生は、学园にいると大人になれ ないと答えている。また物语の後半、西园寺は、幼い顷に棺から出たはずのウテナも、 そして自分达も未だ棺の中にいる、と言っている。棺は世界、卵の殻、凤学园と同じで ある。 『デミアン』で言えば、逃げ込む为の楽园とされていたジンクレエルにとっての自宅で あり、薫干の“光差す庭”も、アンシーにとっての凤学园に相当するものとして描かれ ている。凤学园が、いずれ出て行かなければならない未成熟な心として描かれていると すれば、自我や无意识にあたるものもあるのだろうか。 その役割の一方を担っているのが、影で学园を支配する御影ゼミナール。通称黒蔷薇会 。根室记念馆である。   ■黒蔷薇编 御影  「こんな阳の届かない地の底で、よくもその蔷薇が花をつけるね。」 马宫  「仆の黒蔷薇は闇を吸い込んでいるから…」 根室记念馆を访れた者は、葬式会场への案内板のような指に导かれ、エレベーターで奈 落の底に降りて行く。エレベーターで昇って行く、天にそびえる理事长室とは対照的に 死のイメージがつきまとう。光に満ちた天の支配権を持つ暁生とは逆に、御影草时は闇 に抱かれた地の支配権を持つ。电子计算机のように正确だが目的を持たない机械の様な 男。他人の命令では动かない。神の物である彼を地上に繋ぎ止めるのは不可能である。 御影はそんな风に噂されている。これは意识の支配を受けず自律的に活动する无意识の 特性である。 ユングによれば、心は意识、个人的无意识、集合的无意识から成っており、全てイメー ジで构成されている。意识とは肯定された価値体系である自我を中心に意识されている イメージ。个人的无意识は个人の体験に由来するが自我に否定されたイメージの集まり である。そして、集合的无意识とは、个体の体験を超えた人类共通の、イメージの源の 集まりである。このイメージの源を元型といい、この元型が投影されて认识や行动を作 り出している。集合的无意识に属するものは、代々遗伝的に受け継がれる生得的なもの である。その人が育った环境や体験によって现れ方が违ってくるが、元型そのものを意 识する事は出来ない。その投影されたものを観察する事によってのみ知り得るのである 。 蔷薇の掟は、ウテナ达が凤学园に现れるずっと以前に、彼によって准备されていた。隣 のセクションのやっている事すら分からないように、连携の取れていない个々バラバラ の100人の生徒が携わり、火灾によって死んで地下深くに棺で保管されている。回想 シーンでも声が闻こえるだけのおぼろげなイメージである。决闘広场の床には、倒れた 彼らの影が残っている。 御影は言う。 「彼らは契约していた。 古代の生物が死んで、石油や石炭のような地下燃料が残った。 そういう犠牲が无ければ、今のエネルギー文明も无かった。 そういう犠牲は常に要求される。」 この蔷薇の掟は、まるで进化の过程で获得されて集合的无意识の中に受け継がれて来た 元型のように、そして否定されて个人的无意识に埋没しているコンプレックスのように 、凤学园を地の底から规定しているのである。 彼ら100人の少年达はデュエリストであり、死ぬ事によって黒く変色した指轮を持って いる。根室记念馆を访れた悩める脇役达は、教会の聴罪室のようなエレベーターに乗っ て悩みを言う。意识されているレベルの告白でエレベーターは一度止まり、御影草时の 声に促されてもっと深い部分の根源的な原因を话し始める。再びエレベーターは动き出 し、壁に挂かっている蝶の标本はサナギになり、幼虫になり、卵になる。エレベーター が止まり、火葬场のような最下层へ到着する。そして御影が言う。 「分かりました。あなたは世界を革命するしかないでしょう。あなたの进むべき道は既 に用意してあります」 自我に禁止された価値観は无意识下に押し込められて反対の像”シャドウ“を形成する 。そして自我の抑圧による苦痛が大きい场合、偏った心のバランスを调整する为に表面 化してくる。これを补偿作用という。ユングによれば、シャドウは黒いものとして认识 される事が多いという。このシャドウに操られる脇役达は、黒い指轮、黒いコスチュー ムでウテナとアンシーの前に现れるのである。御影が皆を影で操っていた事を非难する ウテナに、彼はこう答える。 「仆の黒蔷薇を受けた者たちは、皆自分の意思で仆のもとへ来た。 そして自分の意思でこの场所に立ったんだ。 皆、仆と同じさ。永远に惹かれやって来るんだ。」 无意识からの刺客は、意识が目を背けてきた愿望の抵抗なのである。世界の果て(意识 と无意识の境界)に咲き夸る黒蔷薇、持ち主が死に(自我に否定され)黒く変色してし まった黒蔷薇の刻印を身につけた黒い礼装の刺客。 「黒蔷薇に赌けて誓う。决闘を胜ち抜き、蔷薇の花嫁に死を!」 アンシーを杀し、代わりに马宫を蔷薇の花嫁にしようと企む御影。ウテナとアンシーは 彼らを倒して自我に统合して行く。ウテナは内に隠された人の弱さ知り、アンシーは自 分の愿望に忠実になれる可能性を知る。そして黒蔷薇の刻印による决闘を全て终えた时 、アンシーからディオスの剣は现れなくなる。これは、変わってしまう前のディオスの 思い出に抱いていた気持ちを、ウテナに向け始めたと言う変化の暗示だろう。アンシー は、“世界の果て”に従属する彼女の世界に违和感を覚えはじめたのだ。 全ての黒蔷薇が、ウテナとアンシーの中に居场所を与えられ、根室记念馆は存在する理 由がなくなった。御影草时は卒业し、决闘広场にはゴンドラが现れるという変化が起き る。この変化は何を意味しているのだろうか。暁生编で登场するシンボルを考察すれば 见えてくる。   ■暁生编 暁生编からの决闘広场で新たに登场するのはゴンドラ、车、挑戦者のパートナーである 。 人生ゲームと言う有名なボードゲームがあるが、このゲームの驹は男女で色分けされた ピンを一本、オープンカーに乗せたものであり、ルーレットの出目に従って驹を进めて ゴールを目指す双六ゲームである。止まったマスによっていろいろなイベントが発生す るが、结婚というイベントが発生すると、色违いのピンを隣りに乗せる。あるいは、洋 风の结婚式で、式が终わると新郎新妇が乗ったオープンカーの後ろに空き缶をくくりつ けて、赈やかな音を立て走り去るのを见送ったりする。车が、免许の必要な大人のシン ボルである事は前述した。このオープンカーを背景にして立つ、礼装のデュエリストと パートナーという构図は、结婚というイメージを抱かせるのである。ゴンドラも结婚式 で新郎新妇が登场する时に使われるものである。 黒蔷薇编で地下へ降りるエレベーターでは、无意识に押し込まれている过去の体験に遡 る事を表す为に、蝶の标本が卵に还元されるイメージが使われていた。ここではゴンド ラで决闘広场へ上って行く间、アンシーが脱ぎ舍てた子供の象徴としての制服の中から 、成长して花を咲かせる蔷薇のイメージが使われている。全ては大人への成长を予感さ せるシンボルなのである。 ユングがシンボル研究の素材として使った錬金术で言えば、结婚は対立物の结合を表す 。対立物が结合している状态とは、完全を表すものである。この状态を実现したものは 贤者の石と呼ばれ、これを作り出す事が錬金术の目标なのである。『少女革命ウテナ』 での対立物と言えば、ずらされたウロボロスの円环で互い违いに寝るウテナとアンシー だろう。暁生编では、対立物の结合が成就される。 『少女革命ウテナ』に现れるテーマの中で、主要なものは”気高く(自分らしく)生き る“という事と、“大人になる”というものである。暁生编では、デュエリスト达が、 これまで自分が肯定していた自分らしいやり方が挫折を迎えた时、“世界の果て”のや り方を采用する。暁生の理解では、気高く(自分らしく)生きる事と、大人になる事は 相反する価値観である。彼にとって気高さとは无駄な事であり、非现実的な理想主义で しかない。『デミアン』に登场する星に恋する男の様に、星に手が届く前に疑いを抱い たからだ。暁生は本物の星を手にする前に、プラネタリウムの星を手に入れた。本物の 彗星を见つけたが、それが自分のものになると思うのは错覚だと言って、名前を付けな かった。それが大人なのだ。永远のもの、辉くものなんて无い。确かなものは力だ。 暁生は権力に酔いしれる。人工の星空の下で、ピラミッド状に高く积み上げられられた 车の顶点にいる自分の姿を写真に収める。ヒナゲシを噛みちぎり、百万本の剣に刺し贯 かれた蔷薇の花嫁のようなサボテンをはべらせる。理事长室より高い场所は无く、空に 浮かぶ城はまやかしであって、その向こうにある本物の星空に価値を见出さない。暁生 の生き方に憧れる冬芽や西园寺も、カメラのシャッターがおりるたびに、锻え抜いた肉 体を夸るように晒す。彼らは弱い者达を守ってやる力を欲している。自分で望みを叶え る力を欲している。彼らの力を尊ぶ思想を推し进めて行けばどうなるだろう。彼らの、 弱い者は强い者に庇护されなければならないという考え方は、いずれ劣等なものは优秀 なものに支配されなければならない、という考え方に行き着くだろう。 かつてのディオス、そしてウテナは天に浮かぶ幻の城を目指し、暁生は现実の世界の顶 点(理事长室)を目指した。ウテナとアンシー、そして暁生の三人で写真を撮るシーン では、暁生はこう言った。星以外のものを撮るのは久しぶりだ、と。 しかし、彼は夜毎、自らの肉体美を撮影している。いまや、彼の目指す星は力なのであ る。世界を支配する力、ただ弱い者よりも强くある为の力。王子ディオスが経験した、 挫折の结果生まれた“世界の果て”である暁生が、マッチズムの果てにファシズムの军 靴の音を响かせて君临する凤学园とは何なのか。 暁生の正体は“自我”である。自我は周囲を取り巻く环境に适応しようとして、本来の 自分を抑制する形で形成される。押し寄せる民衆(外界)の要请に応え、身を犠牲にし て働くディオスは力尽きて倒れた。だから自分を守る为に歪んで、より强い力で自分を 押さえ込む必要があった。この王子に守られるアンシーは心全体である“自己”という ことになる。つまり暁生はアンシーの一部なのである。アンシーはディオスの力を封印 した。暁生(自我)は“世界の果て”という棺となって、アンシーを闭じ込めた。二人 は外界から心を切り离す事で心を守ろうとした。その结果、変化のない闭じた世界が诞 生した。ディオスを封印した时点で时が止まり、アンシーはディオスの为に、永远に百 万本の剣に苛まれ続ける道を选択した。 暁生とアンシーの「近亲相奸」は、完全な心の状态を表す「结婚(対立物の结合)」と の対比としての设定である。これが现在の王子と蔷薇の花嫁の不自然な関系なのである 。 王子の衣裳を着た暁生は、蔷薇の花嫁の衣裳を着たアンシーを乗せて、どこにも通じて いない道を车で疾走する。 苦痛に喘ぐアンシー。スピードを上げる暁生。 「苦しいか、アンシー。しかし、お前を苦しめているのは俺じゃない。世界だ!」 御影草时は、病んだ少年马宫を、アンシーに替えて蔷薇の花嫁にしようとしていた。无 意识に押し込められたものが、自我に取って替わろうとしたのである。これも二重人格 や分裂症のような状态を引き起こす、抑圧に対する心の反応である。马宫とアンシーが 同一人物であったのは、结局のところ、彼らがコインの里表であったという事だろう。 无意识である御影と、意识である暁生。奈落の底から支配する力、天の上から支配する 力。この二つで构成されている凤学园は心なのである。 暁生もまた、世界を革命する为にもがいている。いつまで俺を苦しめる気だ、とアンシ ーを责めるシーンもあった。暁生はかつての自由だった顷の、何でも出来る可能性を再 び取り戻したいと思っている。そして、蔷薇の掟に従い、蔷薇の门の奥にある、より强 大な力を手に入れて、苦痛に満ちた闭塞状态を変えようともがいているのである。つま り、暁生の构成する自我は限界を迎えており、现実に适応出来なくなっているのだ。 では、ウテナは何なのか。元型的に言えばトリックスター(道化)という侧面を持つ。 谁も逆らえない支配者の権力を、ユーモアで风刺する。弱いものではあるが、王座を覆 す可能性を秘めている。ウテナは女の子であるにも関わらず男装をし、弱いにも関わら ず无谋な戦いを挑み、常に蔷薇の掟に异を唱え、デュエリスト达に、そしてアンシーに も、蔷薇の掟や自分の生き方に対する信頼を揺るがす存在だった。暁生は、はじめのう ちはウテナを軽んじていた。ディオスが期待していたように、最後にはディオスの剣を 自分の所に运んでくると思っていただろう。しかし、ディオスの剣が现われなくなり、 それでも胜ち続けるウテナを恐れ始める。ガチョウは金の卵を産まなくなったら価値が ないと、ウテナ无力化の策谋を巡らせるのである。しかし、暁生にとっての本当の気挂 かりは、暁生の构筑した世界への疑いだったのではないだろうか。だから、支配権を维 持する为には、自分に逆らう彼女を无力なお姫様に変えてしまわなければならなかった 。暁生はウテナを水瓶座の少年ガニメデに喩える。ゼウスは娘のヘベが嫁いでしまった ので、酒宴の酌をさせる代わりの者を探していた。羊番の美少年ガニメデを気に入り、 鹫の姿になって彼をさらい、ずっと侧に置いたと言う。ウテナがガニメデなら、自らは 全能の神ゼウスとして彼女を侧に置こうとしたのだ。お姫様になった无力な彼女をであ る。しかし、それは达成できなかった。 ウテナは、暁生に缚られたアンシーが否定した対立物であり、新しい価値観である。个 性化が起こる为には、现在の自我が、より高い価値に否定される必要がある。新しい価 値観が、现在の自我が构筑している価値体系の持つ弱さを明らかにした时、その価値を 含んだ新しい価値体系を再构筑しなければならなくなるのである。 では、新しい価値はどこから来るのか。実は、自分の中に既にある。自我を形成する过 程で不要とされ、切り舍てられたまま无意识の中に眠っているのである。抑圧された小 さい者が支配者を倒す。これは革命である。棺に闭じこもっていた小さなウテナは立ち 上がり、いつか助けに来ると约束したのだ。 革命と言う名の决闘の最中、暁生は、アンシーを助けられる王子などはじめからいない 、と明言する。 ウテナは、ならば自分がアンシーを解放する者になる、と宣言した。自分の言っている 意味が分かっているのか、と问う暁生にウテナは答える。 「仆が王子様になるってことだろ!」 この时点で、ウテナは革命を自覚している。暁生と言う现在の王子による支配を覆し、 自分が王子になろうとしている。これは现在の自我が、新しい価値に否定される事を意 味する。 ディオスの墓が砕け散る。暴走する投影机、崩壊する天の城。ウテナは暁生を凌驾した 。次々に剣を缲り出すウテナ。剣を受けるのが精一杯の暁生の顔は苍ざめ、なす术もな くアンシーをウテナの方に突き飞ばす。ウテナはアンシーを自分の背後に庇う。アンシ ーを救ったかに见えたが、ウテナは惊きと共に床に崩れ落ちた。背後からウテナを刺し 贯いたのは、他ならぬアンシーだった。アンシーは自我が否定される事を恐れたのだろ う。庇护を失う事を恐れ、新しい価値を信じきる事が出来ない。アンシーも、その手が 星に届く前に疑いを抱いたのである。 アンシーが取り返した剣を受け取った暁生は、蔷薇の门に近づいて行く。この时、真っ 暗な地の底から人の憎悪にひかれる百万本の剣が押し寄せる。この剣は、蔷薇の门の向 こうにあるもの、“世界を革命する力”に人を寄せ付けない为に存在する。この剣によ く似たものが、旧约圣书の创世记、失楽园物语の最後に登场する。 「こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの园の东に、 ケルビムと轮を描いて回る炎の剣を置かれた。」~旧约圣书 创世记 3章24节 回転する煌めく剣とも呼ばれるこの剣は、生命の树へ至る道を闭ざす为に置かれるので ある。そして、蔷薇の门の向こうにある、ディオスの力、世界を革命する力、永远のも の、辉くもの、奇迹の力。この力があれば、アンシーを棺から解放して生き返らせる事 ができる、まさに生命へ至る道なのである。 『デミアン』や『少女革命ウテナ』で言う革命とは、ユングの言う个性化のことである 。自分が认めたくないものを否定する形に形成されてきた自我は、さまざまな偏りがあ る为に、非合理的な価値判断をする倾向にある。この歪みが行动を制限したり、発想を 限定する为、必要以上の苦痛を生み出す原因となる。个性化とは、このような自我をい ったん破壊し、歪みの原因を意识化し肯定する事によって、これまで禁止されていた価 値を含んだ新しい自我を形成することである。最も嫌悪し、否定するものを、自分の一 部である事を认めなければならない。自我を否定すると言う事は、自分の信じている価 値体系が间违っていた事を认めると言うことだ。これは苦痛を伴う。自分の世界を守る 为、蔷薇の门を开けさせない为に、百万本の剣がアンシーを苛むのである。 暁生は门の前に立ち、新しい世界への思いを驰せる。しかし、暁生には蔷薇の门を开け ることは出来ない。何故なら、世界を限定しているのは自我である暁生なのだから。王 子の剣は折れてしまう。 力尽きたウテナに、回転木马に乗ったディオスが现れる。ディオスは、蔷薇の刻印を大 切にし、気高さを失わなかったウテナの闘いにねぎらいと慰めを与えようとするが、ウ テナは拒絶する。地面に拳を叩きつけ、蔷薇の刻印を砕いてしまう。もはやウテナはデ ィオスへの憧れからではなく、アンシーの本当の望みを叶える为に立ち上がる。蔷薇の 门にすがりつき、扉を引き开けようとするが、硬く闭ざされたまま动かない。 「姫宫、君は知らないんだ。君と一绪にいる事で、仆がどれだけ幸せだったのかを。」 涙が落ちて、地の底の暗い水面に波纹が広がる。决闘広场へ入る时と同様、水面からは ね上がった雫が指轮に当たる。既に叩き壊した筈の指轮に。これは决闘ゲームの为の指 轮ではない。蔷薇の门を开く资格を持った者の证である。蔷薇の门は棺となり、ゆっく り开いて行く。アンシーを苛む百万本の剣が、そして回転木马が止まる。暁生は惊愕の 声を上げて止めようとする。百万本の剣が煌きながら回転を始める。 棺の中には膝を抱えてうずくまるアンシーがいた。以前、决闘広场で示された幻覚ほど に飒爽としている訳ではないが、ウテナは手を伸ばしてアンシーを救い出そうとする。 アンシーは、ウテナが百万本の剣の标的になる事を案じて逃げるように言うが、ウテナ は手を伸ばして待つ。アンシーはウテナの手を掴もうとするが、広场を破壊する百万本 の剣の影响で、棺ごと奈落の底へ落ちてしまった。结局、王子様ごっこになってしまっ たと叹くウテナに向かって、百万本の剣が押し寄せ、ここで场面が暗転する。 ウテナは死んだ。   ■何故、アンシーを救えなかったのか ウテナが死んだとする根拠は、ウテナが革命と言う名の决闘を闘っている际、树璃が话 した昔话である。溺れる姉を救おうとした少年は、自分では姉を救えないまま流されて 死んでしまった。その少年の名を、姉も树璃も忘れてしまう。そしてこのエピソードと 同様に、ウテナも学园の生徒达に忘れられてしまう。この対比は重要である。树璃の昔 话と一つだけ违うところがあった。それはアンシーだけは覚えており、生きている事を 信じて今度は自分が探しに行くと言う事である。 『デミアン』では、物语の最後の方で、デミアンが出兵する为ジンクレエルと别れる。 その後、ジンクレエルも出兵するが、戦场で负伤して朦胧としたまま运び込まれた。夜 、完全な意识の中で目覚めると、そこにデミアンがいた。ジンクレエルが微笑みかける と、デミアンは触れ合う程に顔を寄せ、例の悪童クロオマアの事を覚えているかと问う 。 「ねえ、小さなジンクレエル、しっかりきくんだよ。ぼくはいずれここを出てゆくこと になる。きみはたぶん、いつかまた、ぼくを必要とすることがあるだろうね──クロオ マアやなんかに対してさ。そうなってぼくを呼んでも、ぼくはもうそんなとき、そう手 がるに、马にのったり、または汽车にのったりして、きはしないよ。そんなときはね、 きみ自身の心に耳をかたむけなければいけない。そうすればぼくがきみの心のなかにい るのに、気がつくよ。わかるかい。」 この场面は恐らく、心の状态の変化を暗示する梦か幻覚なのである。翌朝目覚めたジン クレエルは、デミアンが寝ていたはずの隣りのマットレスに全く知らない赤の他人が寝 ているのを见る。その後、ジンクレエルの人生は苦痛に満ちていたようであるが、时折 “键”を见つけて、自分自身の中にある运命的な映像のまどろんでいる暗い镜のを覗き 込むと、そこに自分自身の映像を见られるようになる。それも、友人兼导き手であるデ ミアンにそっくりな自分の像をである。ジンクレエルが本当に自立する为には、最後に デミアンがいなくならなければならない。ジンクレエルはデミアンの示した生き方を、 自分のものとして受け入れ、もはやデミアンを必要としなくなった。 『ベルサイユのばら』では、オスカルは革命半ばにして铳弾に倒れる。 オスカルは死の恐怖に立ち向かう为、臆病者にならないようにアンドレを思う。 アンドレは既に死んだ後である。目の怪我で盲目になったのを隠しながらオスカルに従 い、身をていして彼女を守ったのだ。 アンドレが耐えた苦しみならば、私も耐えてみせる。私达は夫妇になったのだから、同 じ场所に葬ってくれと頼む。そしてオスカルは言う。 「自己の真実のみにしたがい 一瞬たりとも悔いなく、あたえられた生をいきた 人间としてそれ以上の喜びがあるだろうか 人间が长いあいだくりかえしてきた生の営みをわたしも… 自由、平等、博爱 この崇高なる理想の 永远に人类の坚き础たらんことを…」 彼女はアンドレとの身分违いの爱のうちに人间が平等である事を知る。 以降、オスカルが命を捧げた、人间の尊厳を大切にする民主主义の精神が世界中に普及 する事になる。 そういう意味で、アンシーの中にはウテナが生きている。ウテナは暁生にかわって新し い自我となったのだ。暁生に别れを告げる际、アンシーは彼の机の上に眼镜を置いた。 この时、チュチュもピアスとネクタイを外して置いた事に気が付いただろうか。 チュチュは常にアンシーの心の反映であった。西园寺がアンシーの人格を否定する行动 に出る时、その足元に踏みつけられていた。あるいは、西园寺を象徴する緑色のカエル につけまわされている。御影に、身近に困っている人はいませんか?と讯かれ、ウテナ が考えている间、チュチュは足元でジョロにはまって騒ぎ立てる。周末、暁生に会いに 行くアンシーにチュチュはついていかない。チュチュは猿である。大きさも鸣き声も色 もネズミのようである。现にネズミ捕りに挂かった事もあるし、ビスケットの啮り方も げっ歯类としか思えないが、猿として扱われている。生活指导の教师が猿に弁当を届け させてはいけない、とウテナを叱る。薫干がチュチュの名前をチューチューと言い间违 えた时、ウテナは「チューチューじゃ、まるでネズミじゃないか」と订正する。 影絵少女が话す寓话の中に、ロボットが登场する。心がないから辛くない、と言うロボ ットは、猿を捕まえようと追い挂け回す。ロボットは蔷薇の花嫁であり、猿は心なので ある。『デミアン』では心の成熟に関して、进化の途上で止まっている人间がたくさん いる、と言っている。二本足で歩いてはいても、鱼かひつじ、这う虫かヒル、あるいは 蚁やミツバチに过ぎない者达が大势いると。心の成熟を进化になぞらえているのである 。チュチュに与えられたネズミとも猿ともとれる暧昧なイメージは、哺乳类の进化を仄 めかし、成长の果てにいつか人间となるという、心の行く末を暗示している。 最初の顷、チュチュは夜鸣きがひどく、ウテナにあやしてもらっていた。徐々に一人で 寝られるようになり、アイマスクは片目を开いている。このアイマスクは闭ざされてい た目が开き始めていたという事だろう。アンシーの自立へ向けた心の成长に伴って、卵 になって再び生まれた。アンシーに感情が芽生え、それを押し杀している様子が垣间见 えるようになる。この顷には、ウテナと暁生が仲良く话す际に、鋭い声でウテナを制す るかのように闻こえるセリフをチュチュに向ける。いつもチュチュはそういうタイミン グで邪魔しようとする。物语の初めの方の“选択と言う名の决闘”で、わざと负けるは ずだったウテナは、决闘の後にこう言っている。 「君の为じゃない。チュチュの为さ。」ウテナはアンシーの心を踏みつけにする西园寺 から、心を守る选択をしたのだ。 そのチュチュが、ずっと暁生を象徴するピアスとネクタイをしていた。アンシーの心は 暁生に占められていたと言うことである。チュチュはそれを外して置いたのである。と すれば、アンシーが置いたのは闭じられた目を象徴する眼镜という事なのだろう。この 眼镜は価値観によるフィルターの象徴なのである。彼女はこの古い価値観を舍て、新し い価値観を获得した。暁生と决别し、ウテナとの结合を果たしたのである。抑圧する神 から自由の神へ。 凤学园からアンシーが去った後、以前、ウテナとアンシーそして暁生が一绪に撮った写 真が映る。そしてウテナの声が重なる。 「ねえ。困った事があったら何でも仆に相谈してよ。 仆は君と友达になりたいんだ。そして、いつか一绪に…。」 オープニングテーマの歌词にこんな一节がある。 「そんな强い结束は カタチを変え 今じゃこんなにたくましい 私达のLife style, everyday…everytime 頬を寄せあって うつる写真の笑顔に 少しの淋しさつめ込んで 洁く カッコ良く 明日からは 谁もが振り向く女になる たとえ2人离ればなれになっても 心はずっと一绪に」 この写真からは暁生が切り取られ、ウテナとアンシーだけが手を繋いで写っている。ウ ロボロスの円环のベッドに寝る二人は、対立物の结合を暗示するように、いつも手を繋 いでいた。これからは、アンシーの中にはウテナがいる。対立物が、全体性の中で调和 のとれた自己を実现したのだ。全き円环を描いた、意识と无意识が全体化された心は、 もはや制限を加えることなく统一した自由な働きをして、最终回のサブタイトルの通り 、必ずや“いつか一绪に辉く”事だろう。アンシーは永远のものを手に入れたのである   ■永远のもの 『少女革命ウテナ』で、登场人物达が目指した“永远のもの”とは何だったのだろう。 永远のもの、辉くもの、奇迹の力、永远のある城。これらは全て同じ事を表す言叶とし て使われている。彼らにもその正体は分からない。しかし、それぞれの望みを叶える为 に必要な力として欲していた。蔷薇の刻印は、蔷薇の门をかたどった、それを目指す者 の印であり、“永远のもの”は蔷薇の门の向こう侧にある。 『少女革命ウテナ』で使われている“永远”というモチーフは、二つの相反する状态を 指し示す。薫干は常にストップウォッチで何かを计っている。千唾时子は蔷薇茶の蒸ら し时间を砂时计で计る。ディオスの墓の前で御影の暗跃を见届ける暁生の侧に、砂の无 い砂时计がある。ウテナの住む寮の庭には日时计がある。 しかし、自律的に时を刻み続ける时计は登场しない。『デミアン』には、こんな时计が 出てくる。 幼いジンクレエルが悪童クロオマアに初めて恐喝を受けた时、ジンクレエルは彼が要求 するだけの金を持っていなかった。しかし、祖母から伝わった古い银制の懐中时计の事 を思い出した。银制ではあるけれど壊れて动かない、洒落に持っているだけの宝物の一 つだった。金は用意できないから、代わりにその时计を贳ってくれ、と申し出るが、ク ロオマアは动かない时计に兴味を示さなかった。そして、この止まった时计が暗示する ように、ジンクレエルの永远とも思える苦しみの日々が始まるのである。 また『ベルサイユのばら』では、死刑を宣告される裁判を前に、マリー・アントワネッ トは独りで死の牢狱コンシェルジュリーに移される。夫は処刑され、息子は平民として 育てられるうちに、王太子をである事を忘れ革命歌を歌うまでになってしまった。娘や 义妹とも引き离され、结果の判っている裁判を受ける为に、この世との永远の别れをた だ待つだけである。浪费の限りを尽くしたアントワネットが、死の牢狱に持って入った 唯一の所持品は懐中时计だった。かつてのように、谒见や舞踏会の予定も无い彼女にと って、何の役に立つというのだろうか。これもまた动かない时间を计る为の时计である 。 ユングは“クロノス”と“カイロス”と言う、2つの时间の概念を使い分けている。ク ロノスは客観的な実时间、时计で测れる量的で物理的な现実の时间である。これに対し てカイロスは、主観的な体感时间とでも言えば良いだろうか。个人にとって何らかの意 味を持った出来事の起きている“その时”、质的な时间の事である。 クロノス(実时间)とカイロス(体感时间)。人间は、クロノス(実时间)に従って永 远を感じる事は絶対に出来ない。现在を过去と比较する事で时间の経过を感じている人 间は、时系列に沿って経过を追うこと无しには、物事を认识出来ないからである。実时 间としての永远を感じる为には、无限に连続した时间を同时に把握する、神のような全 知的な视点が必要になるだろう。しかし、カイロス(体感时间)でなら、概念的な永远 を感じる事があるかもしれない。カイロス(体感时间)はクロノス(実时间)に従わな い。本人にとっての意味や重要性によって、长さが変化する。ある瞬间を、永远に続く かのような印象の中に闭じ込めて、いつもでも振り返る事が出来るし、今感じている喜 びや苦痛が、永远に続くものであるかの様に感じる事も出来る。ジンクレエルの时计や アントワネットの时计が皮肉な存在であるのは、このカイロス(体感时间)を计れない 事による。ここではクロノス(実时间)とカイロス(体感时间)が対比される为に、そ してカイロス(体感时间)がより强调される为に、时计と言う小道具が使われているの である。 『少女革命ウテナ』においても同じである。凤学园は、楽园を失った瞬间の苦痛の中に 存在する。现実に目を背け、カイロス(体感时间)の狭间に囚われている者达の、逃避 する楽园なのだ。永远に苦痛から目を背けている为に、永远に苦しみを受け続けなけれ ばならない。彼らは、かつてあった楽园が永远に続くものだと思っていた。既に失われ たと言う事実と向き合えず、これを取り戻し、永远のものとしようとした。失われた楽 园は再び戻らない。しかし、これに固着した为に、新たにやってくる喜びが见えなくな ってしまう。ウテナ以外の登场人物は、こちらの“永远”を目指していたのである。 アンシーが到达した、もう一つの永远とは何だろう。ユングは、自分に分裂症の兆しが ある事に気付くと、精神状态を把握し改善する为に絵を描きはじめる。何度も描いてい るうちに、それは円に二つないしは四つの要素を持つ几何学的な构図の絵になっていっ た。マンダラである。世界各地に残るマンダラ様の図画は精神状态の反映であった。ユ ングは几点もの美しいマンダラを书き残している。その中に、城壁に囲まれた城をかた どったマンダラがある。城の俯瞰図になっており、中心にある金色の屋根を持つ城を、 坚牢な城壁が几重にも取り囲んでいる。これは中心にある心を守っているのだという。 マンダラは対立する二つないし四つの要素の统合した様子を表しており、例えば男性性 と女性性、天と地、生と死、光と闇、善と悪などが、同じ円の上に共存している。この 城の场合は、地に対する天の城であり、ヨハネの黙示録で言えば、地上のバビロンに対 する天のエルサレムを表す。天を见上げると俯瞰図で见える城というシチュエーション は、『少女革命ウテナ』に登场する、决闘広场の上空に见える城を思い起こさずにはい られない。そして、このマンダラの次に、最终的なマンダラを描き、以降マンダラを描 かなくなる。そのマンダラは、“永远への窓”と名付けられた、中央に蔷薇の描かれた モザイク状の作品である。このマンダラのモチーフになったのは、ユングが见た梦だっ た。 雨の降る夜に、彼は三人の仲间とリヴァプールを访れた。烟と煤の立ちこめる不気味な 场所だった。仲间のうちの一人が言うには、ある友人がこんな所へ移住してしまったの で皆惊いているらしい。话している间に、町の中央にある公园に辿り着いた。池の中に 小岛があり、一本の树が立っている。永远の太阳の光の中に、赤い木莲の花を咲かせて いる。彼は、他の者にはこの奇迹が见えていない事に気付く。そして、ここへ移住した 男の気持ちを理解し始める、と言う内容だった。 限りなく不快で、黒く不透明な状态で始まった梦の中で、奇迹的な美しい光景を见たユ ングは、これがあったからこそ生きて来られたと言った。この絵を描くうちにイメージ は変容を遂げ、木莲は光を放つガラスでできた蔷薇のようになり、公园を取り巻く城壁 、公园を中心に放射状に延びる八本の通りは几何学的に交じわり合い、重なり合って蔷 薇を囲んだ。全てが中心を目指し、何者も中心を超えて行く事は出来ず、中心が目标と なった。ユングはこの梦を通して、自己が方向付けと意味の原理であると言う事を知り 、“私个人の神话の最初の暗示が生じた”と言った。彼は心全体の中心を见出し、永远 への窓を开けて本当の生を歩み始めたのだ。 これは蔷薇の门ではないだろうか。移ろい行くクロノス(実时间)に沿った変化から目 を背け、过去のカイロス(体感时间)によって感じた永远だけに目を向ければ、その差 异は広がり苦痛を生み出す。 御影草时は言う。 「永远を手に入れようなんて、永久机関のカラクリを作り出そうとする様なものだ。人 はもっと谦虚に神様の与えてくれるものに感谢してればいいんです。」 このセリフは、永久机関は作り得ないものだ、と言う意味だけでなく、もし出来れば、 永久机関の持つ无限の循环の中に、永远に闭じ込められてしまう事をも暗示しているの ではないだろうか。実际、初めは永远に関心が无かった御影も、やがて过去の思い出を 永远にする为に暗跃する事になる。この永久机関は心の中に作られるカラクリなのだ。 ディオスが回転木马に乗っているのは、この永远の循环を表している。物质や肉体など のクロノス(実时间)に属するものと、精神や记忆などのカイロス(体感时间)に属す るものは対立物である。これらを结合させて全体性を确保出来れば、クロノス(実时间 )に従った変化をありのままに受け入れる事で、新たにやって来る几つものカイロス的 な感动を感じ続ける事が出来るだろう。 しかし、外界から入って来る情报を感じる时、ありのままに认识する事は难しい。自分 が意识、无意识の中に持っている、価値体系が何らかの意味付けを行うからである。こ の歪みをバイアスと言うが、过去に起きた出来事に固着すれば、自分にとって良い事で も悪く意味付けてしまいかねないのである。だから、本当は望んでいる事も拒絶してし まったりする。自分の心なのに思うままにならないのだ。根室记念馆の100人の生徒 达のように、隣のセクションの事も把握できないような状态で、个々バラバラに働いて いては、自分の心が自分の思い通りにならないのは当然である。心が全体性の中で统一 的に働く事により、本当に自分が望んでいる事は何か、という事が分かるのである。こ れが自分らしく生きる、という事に繋がる。ウテナが永远への窓を开けた时、城壁で几 重にも硬く闭ざされていた本当のアンシーに出会い、その外に道がどこまでも続いてい る事を知らせた。そしてアンシーは、自分が本当はどこに居たのか、何を望んでいるの かを自覚したのだ。 これまでアンシーは、鸟カゴの形をした温室の中で、蔷薇に水さえやっていればいいと 言われていた。本当の自分を押し杀し、棺の中に闭じこもって来た。外界の抑圧に未成 熟な自我が耐え切れず、退行し外界を见なくなる事で抑圧から心を守ろうとした。これ 以上の苦痛からは守られたが、苦痛から目を背けた瞬间に、その影响を軽减したり脱っ したりする変化の可能性を闭ざし、永远の苦しみに囚われてしまった。そのアンシーが 、独りで凤学园の门を出て、果てしなく続く道へ踏み出していった时、彼女は本当の人 生を歩み始めた。自分の足でカイロス(体感时间)の狭间から抜け出した。永远の循环 を舍て、永远の前进へと踏み出したのである。未成熟な自我を破壊し、成长する。これ が世界を革命して手に入れる“永远のもの”だったのだ。 かつて、蔷薇の散るのを见たくないと、砂糖渍けやドライフラワーにしていた千唾时子 は、大人になり、优しい夫と共に幸せに暮らすようになってから、こう思えるようにな った。 花が散るのは実を结ぶ为だと。   ■絶対运命黙示録 『少女革命ウテナ』は何故こんな构造を持つ必要があったのか。この物语は“革命”の 物语であった。革命とは、“支配される者”が“支配する者”を打倒すると言う事であ る。この物语の支配者は自らの自我であった。自我を倒し、心の自由を获得する物语を 通して、観る者にも古い自我に対する蜂起を呼びかけているのだ。そして、多重构造を 持つこの物语は、もう一つの支配者に対しても蜂起するよう呼びかけている。男性上位 、女性蔑视という支配者である。蔷薇の花嫁は、この二つの支配者に、支配を受けてい る事すら自覚していなかった。革命の第一歩は、支配を受ける者の目を覚まさせる事で ある。この手の啓蒙活动は、支配者に気取られてはならない。もし気取られれば、支配 権を维持しようとする力に溃されてしまうだろう。初期のキリスト教は皇帝を神と认め なかった为に、ローマ帝国から苛烈な迫害を受けていた。生きたまま狮子の饵にされた り、あらゆる残忍な手段で彻底的に弾圧された。新约圣书の最後に载っている『ヨハネ の黙示録』は、ドミティアヌス帝时代の末顷に着される。最近では、ずっと未来を予言 する书物のように扱われがちであるが、本来の目的は、迫害に耐えるキリスト教徒达を 励ます为に书かれたものである。迫害される者が迫害する者を非难し、その灭びる日を 确信して耐え忍び、抵抗を続けるように呼びかける内容なのである。ただし、弾圧が激 しくてとてもストレートに书けるような状况ではなかった。だから黙示という形を取る 必要があった。信者达にしか解らない様に书くのである。例えばこんな具合にである。 「また私は见た。海から一匹の獣が上って来た。これには十本の角と七つの头があった 。その角には十の冠があり、その头には神をけがす名があった。私の见たその獣は、ひ ょうに似ており、足は熊の足のようで、口はししの口のようであった。竜はこの獣に、 自分の力と位と大いなる権威を与えた。その头のうちの一つは打ち杀されたかと思われ たが、その致命的な伤も治ってしまった。そこで全地は惊いて、その獣に従い、そして 、竜を拝んだ。」 古代ローマは七つの丘に囲まれた场所にあった为、七つの丘と言えばローマを指す。こ の獣の七つの头はローマ帝国の事であり、十本の角は十人のローマ皇帝の事である。そ して、致命伤から苏った头は、暴君ネロの事だ。ネロは非常に恐れられた皇帝であり、 自杀してしまったのだが、実は生きていて、いつか军队を引き连れて攻めて来ると言う 噂が立つ程であった。また、狮子、熊、豹、十本の角という獣の特徴は旧约圣书のダニ エル书からの引用であり、ダニエル书が书かれた当时、世界を支配していたバビロニア 、メディア、ペルシア、アレクサンダー大王の帝国を表している。ダニエル书で别々だ ったこれらの獣が一つになっていると言うのは、ローマ帝国をこれらの国を全て合わせ たくらいに邪悪な存在として描いているのである。『少女革命ウテナ』もこの様な黙示 表现を多用しているが、支配者への抵抗と革命の企てを表现するには伝统的な作法通り の构造であり、ハイセンスな演出と言える。 黙示表现にはルールが必要である。ルールに则って解読出来るように作らなければ、意 味を知る事が出来ない。『ヨハネの黙示録』はそのモチーフを旧约及び新约圣书の内に 求めた。『少女革命ウテナ』は『デミアン』『ベルサイユのばら』とユング心理学を使 ったのである。他にもギリシア神话や、『白木莲円舞曲』、『花冠のマドンナ』などの さいとうちほの漫画作品も引用されている。 また、コミカルな演出が目に付くが、ユングの元型论のトリックスター(道化)が、笑 いによって王の権威や支配の正统性に疑いを抱かせ、覆す力を持つ事から正当化される だろう。アリストテレスの『诗学・第二部』で、喜剧には笑いによって真理を理解させ る力がある事が论じられていると言う。笑いは既成の価値を覆す为の武器なのである。 これも革命と言うテーマに沿った演出である。 毎回、インターバルとして登场する影絵少女のシーンを、作中で使われているシンボル と関连付けて考えれば、逆説的にではあるが、目を覚ますようにと、メッセージを発し ている事が解るだろう。また、七実が卵を産む话も、カウベルを身に着ける话も、「辛 さ爆発こっぱみじん幻の象がパオーン超辛9000亿倍カレー」の话も、石蕗のストーキン グの话も、全て価値観というものを多角的に考察し、最终的には、集合的な価値体系を 、个性的な価値体系に転换する必要がある事を示唆している。 一见、道化は支配者の目に胁威として映らない。しかし本当は支配者にとって、最も危 険な存在なのである。   ■『新世纪エヴァンゲリオン』へのアンチテーゼ この様な作られ方をしたのは、『少女革命ウテナ』が初めてではない。この作品が作ら れる少し前に、『新世纪エヴァンゲリオン』がユダヤ神秘主义とフロイト心理学をベー スに、『ウルトラマン』をはじめ、様々な既成の他作品からの引用を巧みに使って、エ ンターテイメント性と芸术性を両立させている。両作品とも、不条理でシンボリックな 演出を多用し、间テクスト性が高く、内面の比喩という意味合いが强い作品である事も 共通している。これに仿ったのは、一つにはこの様な作り方に賛同した、という面があ ると思われる。もう一つは、アンチテーゼと言う侧面を持っているのではないだろうか 。 『新世纪エヴァンゲリオン』では、シンジは他者とのコミュニケーションを上手く取れ ないが、物语が进むにつれて周囲との信頼関系を筑いて行く反面、それでもなお、理解 出来ない他者とのすれ违いに苦しみ、期待し里切られ、近づいては远ざかる。そして外 界の要请に圧倒され、全て投げ出したい冲动と逃げちゃ駄目だと言う胁迫のせめぎ合い の中で追い诘められて行く。やがて人类补完计画が开始され、シンジの问题を遡って行 くと原因は父との関系にあり、父杀しを行う事で大人になる。自分と他人の区别は、他 人を知り得ない事で成り立っているのだから、コミュニケーション不全は必然である、 と言う原理を受け入れる事で、彼は初めて自分の冲动に沿ったぎこちないコミュニケー ションを始める。 ここで得られた结论はシンジにとって福音となる。他人とは絶対に分かり合えない。そ の他人と区别されているから自分が存在できる。病的に他人の评価を気にするのは生育 暦に问题があるからであり、自分に责任を感じる必要はない。これは一つの考え方であ り、これまでシンジを缚ってきた苦痛に満ちた人生から彼を救い出したといえる。しか しこの场合、シンジの问题は全て环境に転嫁されてしまっており、不幸な生育暦によっ て规定された现状を受け入れただけである。段阶的には必要なことかもしれないが、こ のまま终わってしまってはいかにも後向きである。生育暦によって生き方が决まると言 う决定论的な见方はフロイト的である。 この自分の自由にならない「他者」や「外界」から、「自己」を切り离す「A.T.フ ィールド」による结论は、一种の「谛め」によって苦痛を麻痹させて生きると言う事で ある。『少女革命ウテナ』におけるアンシーの最初の生き方、「棺の中」の人生なので ある。 『少女革命ウテナ』は『新世纪エヴァンゲリオン』と同じテーマを扱っていると言える 。つまり、“自分らしく生きる”、“大人になる”、と言う二つのテーマである。しか し、过去に制限を受けて全てを谛めたアンシーが、一人の人间として自立する様は、シ ンジの辿ったのとは正反対なのである。 そして、両作品は故意に相似形を描くように创られていると思える。『少女革命ウテナ 』における、ユングの「意识(凤暁生)」と「无意识(御影草时)」の葛藤によって进 む物语は、『新世纪エヴァンゲリオン』においては、フロイトの「リビドー(ネルフ) 」と「デストルドー(ゼーレ)」の葛藤のトレースなのである。 『少女革命ウテナ』が援用しているユング的に言えば、现在の问题は过去に直接的な原 因がある訳ではなく、むしろ过去に固着している为に现在が制限を受ける事で起きてい るのであって、本来は既に过ぎ去った「过去」の出来事とは関系が无いのである。これ も『少女革命ウテナ』が発想された一つの要素かもしれない。 END ---------------------------------------------------------------------------- 内容很多... --



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◆ From: 140.112.236.191
1F:推 eversun:有够多....直接END 不过原PO要不要写一下这是哪来的? 05/19 00:49
2F:推 eversun:前面把少革和《旁徨少年时》这本书拿来做比较 最後一段则 05/19 09:00
3F:→ eversun:是和EVA做比较 大致上是这样啦 05/19 09:01
4F:→ ditene:http://grail.s55.xrea.com/hyouron.htm 原网址 : ) 05/22 19:28
5F:→ ditene:我很想知道作者本人对这个作品的看法,所以想去找一些日本 05/22 19:29
6F:→ ditene:的评论. 我想日本的论坛会更贴近原作的本意吧...? 05/22 19:30







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