作者kevingareet (邓丽君板成立)
看板TeresaTeng
标题[讨论] 邓丽君的秘密写真(续)
时间Sun Aug 24 00:25:34 2008
テレサ・テンと中国政治
1980年に入り、テレサ・テンの歌声は中国でも大流行。とくに彼女が北京语で歌った「
何日君再来」(いつの日、君帰る)はあっという间に社会へ広がっていった。しかし、
やがて反动が起きる。83年10月11日から12日に开かれた中国共産党第12期2中全会で「
整党に関する决定」が采択され、いわゆる反精神汚染运动がはじまったからだ。ここに
绍介するのは、今回の北京取材で入手した上海の「解放日报」(83年12月20日付)の记
事だ。そこではテレサの歌った「何日君再来」が精神汚染だと弾劾されている。社会レ
ベルでもさまざまな强権的手だてで、テレサの歌声が规制されていった时代である。
それから2年。中国共産主义青年団机関纸の「中国青年报」(85年2月1日付)1面にテ
レサ・テンへのインタビュー记事が彼女の写真とともに突然掲载され、中国国内はもち
ろん、香港、台湾でも大きな话题となり波纹を広げた。
精神汚染などという汚い言叶を投げつけられていたテレサの评価に変化が起きた背景
にはいったい何があったのか。そこには中国政府内部の権力闘争が関わっていた。そし
てテレサはどう関わっていくのか……。私が构想してきたテレサの世界はアジアへと开
かれていく。
なぜテレサ・テンなのか
7月8日から12日まで北京に出かける。中国は92年、94年以来の访问。前回の目的は统一
教会。今回はテレサ・テン。なぜテレサなのか。私が彼女を取材しはじめたのは92年。
もう8年の时が経过した。当时の私は都はるみさんを取材し、のちに『歌屋 都はるみ
』(94年讲谈社刊、97年文春文库)としてまとまる原稿を书いていた。そのとき女性を
书く视点を教えてくれたのが讲谈社の名物编集者だった岩本敬子さんだ。黒柳彻子さん
のベストセラー『窓际のトットちゃん』を担当した岩本さんとは、私が就职で77年に东
京に出てきてからのお付き合いだった。编集者の大先辈。ある日、讲谈社近くにあるち
ゃんこ料理屋でご驰走になったとき、岩本さんはこう言った。
「都はるみを书き终えたら次に何を书くかを考えておきなさいよ」
书き下ろしの単行本を书き终えると虚脱感に袭われる人が多いから、そうならないよ
うに、というアドバイスだった。私は言った。宫本顕治をどうしても书くつもりだと。
私の人生を変えたと思い込んでいた共産党の最高干部の人生の役割と限界を、ノンフィ
クションの手法でどうしても书きたいと思っていたからだ。実际に宫本の秘书など関系
者に话を闻く作业も进めていた。しかし、あるきっかけでふっと気が抜けた瞬间があっ
た。违うぞ、と思った。私はもっと大きな枠组みに取り组みたいと考えるようになって
いた。そうだアジアを书こう。そう决めたとき心の奥深くからすーっと自然に浮かんで
きたのがテレサ・テンという女性だった。
日本では「つぐない」「爱人」「时の流れに身をまかせ」「别れの予感」などで知ら
れる歌手。だが私の强い印象は89年に起こった天安门事件に反対した勇姿だった。「演
歌歌手」と天安门事件。いったいテレサ・テンの心のなかにはどんな思いが涡巻き、そ
の人生はどのような経过をたどってきたのか。さっそくテレサに取材を申し入れた。す
でにパリで生活を送っていた彼女が日本に来る机会は少なかった。トーラスレコードの
担当者などの协力で话を闻くことが出来たのが92年7月22日。フジテレビで话を闻いた
。ピースサインをして微笑んだテレサが握手をしてきたはじめての出会い。さまざまな
质问に笑顔で答えていたのに、天安门事件の话を闻くと涙声になったテレサ。私の取材
はそこからはじまった。そして94年10月24日仙台。最後の来日になるとは予想だにしな
かった别れの一瞬。天安门事件に反対したテレサを书きたいと伝えた私に彼女は小さい
声でこう言った。
「光栄です」
その直後に彼女の口から出た言叶に私は心底惊いた。
「私のこれからの人生のテーマは中国と闘うことです……」
やはりそうか。テレサが激しい言叶を口にした意味を私は纳得した。それは彼女が亡く
なってから喧しく流されたスパイ説にも関わっている。さまざまな忆测。私はこの8年
间の取材でテレサに関するさまざまな疑惑にすべて具体的に答える准备が出来ている。
その最终的な确认のため、これから北京を歩く。
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