作者YUCHIRO (YR)
看板LUNA_SEA
标题[月海] 「终幕の瞬间、大切なものを失った…」LU
时间Tue Jun 4 10:57:54 2019
心得:很值得看的一篇访问、提到了当年五人终幕前关系的变化、内心的想法,一路聚合离散又重新成为LUNA SEA。
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2019年6月1日 11:00 LINE NEWS编集部
【取材・文 : 前田将博(LINE NEWS编集部)、写真 : 宫脇进、动画 : 二宫ユーキ】
ラストの曲が演奏される。
银テープが宙に舞い、客席は梦中になってステージへ手を伸ばす。
「最後に、もう一度ひとつになりたいと思います」
演奏が终わると、ボーカルが呼びかける。
その言叶を合図に、ステージの5人が手をつなぐ。
まばゆい光の中、それに呼応するように场内の人々も手を取り合い、天高く掲げる。
LUNA SEAのライブでは、この光景が几度となく缲り返されている。
2019年5月29日。
バンドは结成30周年を迎えた。
RYUICHI、SUGIZO、INORAN、J、真矢。
もともと别々のバンドに所属していた5人。
音楽的なルーツも趣味嗜好も违う。
そんな5人がひとつになり、LUNA SEAとしてデビューした。
「终幕」と称し、2000年に事実上の解散。
一度はバラバラになった。
しかし2010年に「REBOOT」(再起动)。
约10年のブランクを除き、谁一人欠けることなく同じ年月を过ごした。
なぜ5人は、ひとつであり続けられたのか。
一度は别々の道を选んだ5人が、30周年を迎えることができたのか。
メンバー全员が一堂に会した5月上旬。
バンドの歴史を振り返りながら、それぞれの视点で思いを语った。
.强いヴィジョンを持つ5人がぶつかり合うバンド.
5人が活动を共にすることとなったのは1989年。
INORANとJが所属していたLUNACY(当时)に、别のバンドのメンバー同士だったSUGIZOと真矢が加入。
最後にRYUICHIが加わった。
SUGIZO、INORAN、J、真矢の4人は、同じ神奈川県秦野市出身で友人同士。
RYUICHIは、そこから少し离れた同県大和市出身。
5人はくしくも同じエリア、年代に生まれ育った。
5月29日、东京・町田プレイハウスで初ライブ。
この日が実质の结成日となった。
当时を振り返りながら、5人とも、30年後は「想像できなかった」と口をそろえる。
全员まだ10代。
後先を考えられる年齢でもなかった。
しかし「このメンバーなら絶対にいける」という漠然とした自信はあった。
结成当初より、LUNA SEAにリーダーは存在しない。
全员がバンドや楽曲に対して、それぞれのヴィジョンを强く持っていたためだ。
そのため、意见が分かれることは当たり前。
时にぶつかり合いながら、手探りで着地点を见つけていった。
SUGIZO「意见はいつも分かれますね。おのおのが别のバンドのリーダー格だったし、各バンドでもっともヴィジョンを持ってる人间が5人集まったんですね。だから、常にいい意味でアイデアがぶつかり合っていた」
RYUICHI「5人のバイブレーションが共鸣し合っていないと纳得できないから、自分たちの音楽への情热が欠けていると思ったときには、すごくぶつかりましたね」
J「责任転嫁させない。自分の意见を持つ。それが普通のことだと思って生きてきたから。ある意味、仆らはラッキーだったのかもしれない。本気でぶつかり合える场所があったから」
一人でも纳得できないメンバーがいれば、その案は弃却される。
お互いのセンスを认め合っているからこそ生まれたルール。
反面、大人への警戒心や不信感は强かった。
信じられるのは自分自身と、メンバーだけだった。
RYUICHI「大人の言うことは、まず闻かなかった。どうせセンスがないだろうと思ってたから。音楽を作るのは俺たちだから黙ってればいいんだよって、とがった反発心がありましたね」
J「当然、不安もあった。でもそれを打ち消せるのは、5人が心底纳得いくものを作っていくことだけだったから」
INORAN「不思议とうまくいっているけど、まとまっている感じではないんですよね。そんなに丸いものではないというか。ただ、お互いにリスペクトしている。いいバランスの5人なんでしょうね」
.集合写真のOKテイクは「5000枚に1枚」?.
曲作りでは、セッションを何度も缲り返した。
完成に至るまでの间に、原曲はどんどん変化していった。
初期に作られ、现在もライブで演奏され続けている「BLUE TRANSPARENCY」「Dejavu」「WISH」。
これらの名曲たちも、発表されるまでに、大きく姿を変えていったという。
SUGIZO「『BLUE TRANSPARENCY』はINORANがコードやモチーフを持ってきて、それを各メンバーが好き胜手にアレンジして、ああいう形になった。そのいい例だと思います」
それぞれが思い描く别々の完成図を一つの曲にするには当然、长い时间を要する。
ただ个性がぶつかり合うことで、个人の発想では考えられないものが生まれると、全员が信じていたのだ。
真矢「话し合いでは解决できないことが多かったんですよ。だから音を出して确かめていた」
SUGIZO「当时は先を予测できるスキルもなかったので、みんなでいじりながら作るしかなかった」
J「でも、そうすることで、自分たちが思い描いた以上のものが生まれてくる。5人それぞれの个性が入れば入るほど、今までにない音楽になるって信じていたんです。どっちでもいいよ、とは絶対に言わせない」
RYUICHI「LUNA SEAって、自分の思い描いたものを作るわけではなくて、常にいろんな色が混ざり合ってできている。黒って、全部の色を混ぜ合わせるとできるんですよね。だから、おのおのが违う色を持ち寄って黒にしていくのが、完成までの道のりというか」
感性の违いは、写真撮影でもうかがえた。
集合写真を撮った际、OKテイクが出ないことも珍しくなかった。
おのおのが理想とするカットが违うからだ。
2ndアルバム「IMAGE」(1992年)の顷。
5人で明け方まで撮影したアーティスト写真が、すべてボツになったこともあった。
その教训により、4thアルバム「MOTHER」(1994年)の顷からは、撮影のやり方も変化していった。
ソロ写真の合成で集合写真を作成することが、増えていったという。
この话を振ると、冗谈交じりに真矢は「集合写真を撮ったら大変なんですよ。5000枚撮って1枚、OKがあるかどうかだから」と话す。
周囲のスタッフは苦笑しながら、无言でうなずく。
その表情からは、それが决してオーバーな表现ではないことがうかがえた。
真矢「メンバーを説得するスタッフの方が大変だったと思う。终幕の顷にも集合で撮ったんだけど、その时は最初から数枚しか撮らないって决めていたんだよね。『その数枚に命をかけるから、どうしても撮らせてくれ』って説得があったから、撮影したんだと思う」
.想像を超える「大きなうねり」.
ライブを始めてから间もなく、活动の规模は急速に大きくなっていった。
バンドが生み出す化学反応は、时としてメンバー自身も想像していないような结果をもたらすこともあった。
そんな瞬间をJは「自分自身でもコントロールできないような、大きなうねりの中に飞び込んでいくような感覚」と表现する。
J「いまだに鲜明におぼえているのは、デビューする前、目黒鹿鸣馆でライブをした时ですね。坂道の途中にライブハウスがあるんですけど、その前に歩道桥(当时)があって、そこにバーってすごい数の人がいる。今日、何かあるのかなって思ったら、みんな仆らのお客さんだったんですよ」
アルバム「MOTHER」(1994年発売・提供写真)
そんなうねりを感じながら、结成当初から抱いていた「絶対に売れてやる」という揺るぎない思いが、现実となっていった。
1991年に1stアルバム「LUNA SEA」をインディーズでリリースし、翌年にメジャーデビュー。
1995年には、东京ドームで単独公演を开催するまでになった。
バンドとして手にした大きな成功。
その一方で、息苦しさを感じるメンバーもいた。
J「东京ドームまで行ったあとに、行き先が见えなくなってしまった。ここまで来たけど、次はどこを目指そう、みたいな。成功したあとのことを想定していなかったというか」
J「ロックバンドが持つモチベーションのひとつが、アンチテーゼだと思うんです。それが、自分たち自身がテーゼに変わった。そういったことへの混乱みたいなものがあったかな」
1997年、絶え间なく走り続けてきたバンドが、初めて足を止めた。
バンドとしての活动を休止。ソロ活动を行った。
ただこの时は、1年间という期间が决まった上での活动休止だった。
.神様からのちょっとしたサプライズ.
1997年12月、LUNA SEAとしての活动を再开。
翌1998年末には初のNHK「红白歌合戦」を果たすなど、バンドはさらに大きくなっていった。
10周年を迎えた1999年。
「CAPACITY∞」と题し、チケットの枚数制限を设けない前代未闻のライブを东京ビッグサイトのオープンステージで行った。
しかし开催3日前に、野外に设置されたステージセットが突风で倒壊するアクシデントが袭う。
アルバム「SHINE」(1998年発売・提供写真)
急きょ、がれきとなったセットを再构筑し、ライブを决行した。
演奏する5人の背後に広がった、廃虚のような空间。
まるでこんなセットを组むことが最初から想定されていたような迫力のステージを前に、人々は热狂した。
RYUICHI「当时、戦後最大の突风が吹いて倒壊するんですけど、紧急招集がかかって现场を见に行ったんです。もちろん中止にしようって声もあったし、仆自身もこれはできないだろうって思った。でも、ここでやらないで终わったらダメでしょうって意见が出て、岚の去ったその风景の中でライブをやったんですよね」
SUGIZO「大きなピンチだったわけですけど、絶対に谛めなかった」
INORAN「なんとかしないと気がすまないんでしょうね。向かっていかないと。LUNA SEAっていうバンドの存在意义はそこなんだろなって、最近思いますけどね」
LUNA SEAは过去にも、大きなライブの开催时、たびたび悪天候に袭われていた。
1993年には日本武道馆公演が台风で延期。
翌1994年の横浜アリーナ公演时には、大雪に见舞われた。
いつしか彼らは「岚を呼ぶバンド」と呼ばれるようになっていた。
真矢「今になってみたら、みんなの记忆に残るための、神様からのちょっとしたサプライズだったのかなって思ったりもしますよね」
SUGIZO「一个一个を伝説にしてくれるようにね。その时は死ぬほど苦しかったし、なんで俺たちだけって、天気や环境を恨みました」
SUGIZO「でも、结果的にはいろんな武勇伝を残してくれたことに感谢してますよ。どれも忘れられないし、それを乗り越えたことで、より大きな场所に着地できた」
.一刻も早くバンドを离れたかった.
「CAPACITY∞」に集まった観客は、过去最高となる10万人。
だがこの顷、メンバーが抱える违和感も、看过できないほどに大きくなっていた。
RYUICHI「LUNA SEAというバンドがいつのまにか大きくなっていって、たくさんの人を食べさせないといけないし、毎年アルバムを出さないといけない。そういう责任感、义务感の中で、本当に大切なものを失いかけていたんじゃないかな」
真矢「スケジュールがぱんぱんすぎて、目的を失っていた感じはあったかもしれない。毎日の生活の中で、今どこにいるんだろう、なんのためにここにいるんだろうって、わからなくなるくらいに」
INORAN「意味のないルーティンは嫌だったんだと思います。音楽ビジネスの中で、LUNA SEAはこういうものだって、自分たちも缚られすぎていたんでしょうね。そこを一回リセットしなきゃいけないって」
J「自分たちで何かをやり终えたのか、それともたどり着いたのか。そこに明确な答えみたいなものはなかったんですけど、バンドとして决着をつけなければいけなかったのかな。ただダラダラ存在することも可能だったし、それは悪いことではないと思う。でもこの5人は、それを许さなかった」
次第にメンバーの関系性も悪化。
絶妙なバランスで保たれていた5人の歯车が、いつしか、かみ合わなくなっていた。
メンバー间で直接、意见を交わすこともなくなっていた。
コミュニケーションは、マネージャーを介して行っていたという。
「メンバーの顔も见たくなかった」と、SUGIZOは険しい表情で振り返る。
そして、すぐさま「今は本当に家族なんですけどね」と付け加える。
SUGIZO「当时は仲が悪かったですね。直接、会话をしなかったし、お互いに意见も言わない。それほど各メンバーの距离は离れていました」
バンドのムードは、かつてないほど険悪になっていた。
そんな中で、终わりを见据えた话が出るのは自然なことだった。
ただ、ここでもメンバーの意见は分かれた。
RYUICHI、SUGIZO、INORANの3人は、バンドを终わらせることに肯定的だった。
そういった案に対して、真矢は「否定はしなかった」という。
SUGIZO「仆は、一刻も早くバンドを离れたかったですね」
RYUICHI「正直、このバンドが存続していく未来が见えなかった。自分はもう歌えないと。解散でもいいし、なんならボーカル脱退でもいいっていう本音はありましたね。そういう话もしたし」
一方でJは、LUNA SEAとしての活动を続ける术を模索していた。
J「俺はまだ、やれることがあるんじゃないかって思っていたから。当然そういった意见をメンバーにぶつけてはいましたね。ただ、それぞれの思いが重なるところで音を出さなければ、このバンドは辉かないとも思っていた」
INORAN「谁がそれ(解散)を言うかとか、(賛成か反対か)どっちの役をやるかみたいなものも、暗黙の了解的にあったかもしれないですね。决して後ろ向きなことではない、前に进むための选択だってことも、みんなわかっていたし」
.LUNA SEAを美しい姿のままで.
ライブのたびに集まり、时には结成当初のように、メンバーだけで议论を交わした。
话し合いは、1年以上に及んだ。
5人が出した结论は、解散ではなく「终幕」。
この表现は、スタッフが発案した中の一つだったという。
真矢「バンドって絶顶期に引くのがかっこいいじゃないですか。その方が、いつまでも伝説として残るというか。LUNA SEAも、それが今なのかなっていう时期だった」
RYUICHI「お互いの绊がなくなりかけていたので、そのあとには憎しみが涌く。そしたらもう二度と戻れないバンドになる。REBOOTを见据えていたわけではなかったけど、美しい姿でLUNA SEAの歴史を残しておきたいっていう気持ちもありましたね」
2000年12月26日、27日に东京ドームで「THE FINAL ACT」を开催。
各日3时间以上、合计45曲が披露された。
27日の公演、最後の「WISH」を演奏する前、RYUICHIはこう言った。
「これで全部がなくなっちゃうとか、そういうことじゃなくてさ。俺たちとお前たちの最高が今日だったら、明日はもっと高く登れるよ。そうだろ?」
カーテンコール。
いつものように、5人が手をつなぐ。
ステージや花道の端から端まで歩いてファンに感谢を告げる。
最後は笑顔のままで、ステージを去っていった。
RYUICHI「もしあの时、LUNA SEAが嫌で嫌で仕方なくてドームに立っていたら、すっきりして终わったと思うんですよ。でも终幕の瞬间、すごく大切なものを失ったっていう気持ちが涌いたんですよね。きれい事に闻こえるかもしれないけど」
こうしてLUNA SEAは、约12年の活动に一度、幕を下ろした。
なくしかけていた绊を取り戻すのに、ここから7年の时を要することとなる。
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