作者Toshizo (多摩の岁さん)
站内KenShin
标题[幕末史研究]剑を取っては无敌の男
时间Fri Feb 8 21:25:26 2002
强いと评判の齐藤一ですが、果たしてその实力がどれくらいのものであったのか
は、当时の人々の话等から推测するより他に手はありません。
「谁々よりも强かったのですか?」という质问を顶く事があるのですが、实际の
ところ、わかりません(おいっ!)。强さというのは必ずしも剑の腕だけでは无い
ような气がするのです。
もちろん、道场で竹刀を振るっても、凄腕であったろうとは想像がつきますが、
齐藤一は、もっと、こう何か计り知れない强さを持っていたのではと私は思うので
す。
真剑での胜负における度胸や勘、对峙した相手を倒す杀伤能力、数多の战で战い
续ける体力と生き残る生命力、そういったものを兼ね备えたある意味、恐ろしい男
であったような气がします。
新选组には高名な流派の免许皆伝者が、何人もいましたが、齐藤一はそうではあ
りませんでした。にもかかわらず入队してすぐに藤堂(北辰一刀流目录)、冲田(
天然理心流 免许皆伝)と并んで最年少干部(冲田は二才年上の说もありますが)
となり、後に三番队を率い、剑术师范头をも务めます。これは彼の实力を证明して
いますし、それを近藤、土方も认めていたということです。
また、话として残されている斩り合いは、齐藤一年表に揭载している大阪力士と
の乱斗、四条大桥の斩り合い、天满屋事件、油小路の变などがありますが、なかで
も油小路の变で服部武雄を倒したのは斋藤であるという、永仓が後年弟子に语った
逸话は(本当ならば)彼の强さを证明していると思います。
また、戊辰战争(斋藤が战ったのは鸟羽伏见の战いから、会津战まで)でも、斋
藤(山口)は常に前线で战って生き残っていますし、西南战争でも(铳で击たれ负
伤はしていますが)彼(この时は藤田)が死ぬ事はありませんでした。
新选组结成とほぼ同时に入队し、西南战争まで战ったのは斋藤だけです。このこ
とから、一骑当千、百战链磨のつわもの揃いの新选组においても、おそらく实战に
身を投じた回数が最も多かったのは彼だったのではないかと推测されます。
まさにくぐった修罗场は数知れず。
にもかかわらず彼はついに战场に倒れる事无く、叠の上で(爆)ほぼ天寿をまっ
とうしてしまったのです。
齐藤一恐るべし。
实际に真剑で立ち会った人の话が残っていれば、物凄くリアルなものだったでし
ょうが、斋藤と立ち会って生きていた人などまずいないハズでしょうから身近な人
の话を载せてみました。
また、後半には彼が警官时代に行った剑术大会の记录とそれに关する考察です。
「わし(永仓新八)が下晴眼に构え、斋藤が平晴眼で相对するところ、相手がな
かなか攻こめまぬ为、一步出て跳ね上げようとしたところ、するりと躲され、
そ.の.一.瞬.突.き.
を取られた。
又、ある时は小手を取りにいったところ、拔打ちに先に小手を取られた」などと
翁は斋藤の剑を无敌の剑なりと申しておりました。
(天满屋で)当时居合の名手といわれた中井庄五郎が、三浦の前で片手をつき、
挨拶の样なしぐさよりいきなり片手拔打に来た为、三浦は後方に大きくのけぞった
ところ、斋藤が一瞬左突きにあった大刀拔打に一刀で相手を倒す手练の技であった
との事です。
永仓、斋藤两氏の真剑斩击谈として刀の鲤口(鞘の口)を切った时より、一瞬で
も恐怖を感じた时は死であると云っておられたと申しておりました。
以上すべて『幕末史研究第三十号』より 泷上铁生氏谈
--
男の一生というものは美しさを作り上げていくものだ、自分の。そう信じている。